見出し画像

元鬱病、無駄を懐古する

複数人と食事に行った際、割り勘になる。代表者がまとめて払って、他の人間は専らPayPayで送金する。とある日の私も店先の路上でPayPayを開いていた。

この光景をふと客観的に想像したとき、異様だなと思った。

代表者は無表情でスマホを機材にかざし、やることのない店員は無表情で決済が終わるまで棒立ちで呆けており、残りの客はスマホを覗き込んでPayPayを立ち上げ、代表者に送金する。

現金のやり取りならば、ちょうどは持ってないから少し奢ってもらうだとか、じゃあこの後コンビニでアイスを奢ってだとか、その財布かっこいいなだとか、そんなやり取りがあったなぁと思い出した。他人の財布を見たのはいつが最後だろうか。

合理性は好きだ。現金に触らなくて良いのも、会計が早く済むのも衛生的で時間の節約になる。

ただ、心が貧しくなってしまったような気がする。合理性を保ったまま、心を豊かにするにはどうすればいいのだろうか。なんだか無駄が懐かしいと思った。

なので、今日はエレベーターに乗ったときに、他人が降りる時、開くボタンを押してあげてみた。

どうせドアには安全機能がついており、人の出入りを感知している間は閉まるわけがないから、いつもはエレベーターの操作ボタンの前に位置取ってもスマホをいじっていた。敢えて開くボタンを押した今日、半分くらいの人は礼と言わんばかりに頭を下げていた。年上のダンディーな男性と最後まで開くボタンを押し合っており、この紳士に先に降りていいですよのジェスチャーで手を差し伸べてもらった。

無駄も悪くない。

明日も自分に優しくできますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?