「志」を持った政治家出でよ!

「志」を持った政治家出でよ!
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」300/通算731 2024(令和6)年6/15/土】昨日は室温33℃、一気に真夏。カミサンの付き添いで杖を頼りに200歩先の整形外科医院へ行って治療をし薬を入手したが、それにしても夏子、早過ぎだ! フラフラ、ヨロヨロになって営繕はお休みに。今朝は30℃。33℃を知った小生には「なんてことはない、楽勝だ!」と早朝7時からガレージの修理を再開した。艱難汝を玉にす! やり過ぎて熱中症になったりして・・・

それはさて置き、産経2024/6/6、野口健氏の「直球&曲球: テント村を即決できなかった日本の行政」は刺激的だった。以下、転載する。
<5月29日、2カ月間にわたり能登半島の石川県七尾市で設営されていたテント村が梅雨入り前に閉村した。テント村を利用したボランティアは5401人。1123軒の家屋から被災ゴミを運び出した。岡山県総社市と私が代表を務めるNPO団体が連携し被災地にテント村を設置したのは2回目となる。1回目は熊本地震(平成28年)。主に車中泊をされている方々を対象に約600人を受け入れ、やはり2カ月間運営した。

今回は、ボランティアを受け入れるためのテント村となったが、「2種類」のテント村を実施してみて、災害時におけるテント村の重要性を改めて痛感した。

能登半島地震ではボランティア不足が指摘されていた。地理的なものと道路の甚大な被害が要因だった。その上、被災地に宿泊できる施設がなく、ボランティアが金沢市からバスで奥能登に入っても日帰りになるため、作業時間が2時間ほどしか取れない。

テント村の利点はテントと場所さえあれば〝一夜〟で完成することだ。ただ、今回は準備を始めてから実現するまで1カ月以上かかった。初めに持ち掛けた奥能登地域の首長は前向きだったが、石川県が不許可。次に七尾市の茶谷義隆市長に連絡したら「ぜひ、お願いしたい」と即決したものの、またしても石川県が不許可の判断。茶谷市長は引き下がらず、すぐに馳浩県知事に直談判し、ようやくゴーサインが出た。
既に100張りのテントや寝袋などの準備を終えていたので安堵したが、同時に無駄に時間を浪費してしまったことが残念でならなかった。

イタリアでは災害発生から数日以内にテント村を造らなければならないという法律があるそうだ。それぞれの自治体がテントや寝袋などを確保し、地震が起きれば周辺の自治体が「テント村セット」を被災地に届け、あっという間にテント村が誕生する。
災害大国・日本でも各自治体が寝袋やテントを確保し、テント村の設営場所も決めておくべきだ。平時からリアルに有事を想定しリアルに備えないと、いつかこの国は「致命傷」を負うだろう>(以上)
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信長は「急の役に立たぬ奴」が大嫌いだったとか。臨機応変、速攻で対処する秀吉を可愛がっていたが、信長が「本能寺の変」で光秀に討たれたとの極秘情報を得ると秀吉は戦地から大急ぎで京へ戻り光秀を征伐し、天下人になった。運良く極秘情報を得て速攻で対処したことが成功したのだ。

一方で石川県の馳浩知事・・・運が悪いのか、危機感が緩いのか、どうも・・・
<2024年1月1日16時11分、令和6年能登半島地震発生。16時45分頃、馳は自衛隊に災害派遣を要請。当時、正月休みのため東京の自宅に帰省していた。災害派遣要請から15分後、自宅から直接首相官邸入りして情報収集にあたった。県庁での対応は副知事の徳田博が担当した。 1日夜、滞在していた首相官邸から内閣府調査チームのメンバーと共に自衛隊のヘリコプターで金沢駐屯地に向かった>(WIKI)

そして今回も・・・北國新聞6/4「馳知事、発生時は都内 地震後、急きょ石川へ 奥能登で震度5強 西垣副知事、中塚広報監も上京中 首相面会取りやめ、4時間半後に県庁到着」から。
<奥能登で震度5強の地震があった6月3日早朝、馳浩知事は都内の自宅に滞在中で、石川県庁に到着したのは発生から約4時間半後だった。3日午前に官邸で岸田文雄首相と面会する予定があったためで、県職員は元日に続いてトップ不在の中で情報収集に当たった。馳知事は「(県庁と)連絡は常に取っており、問題はなかった」と強調するが、西垣淳子副知事や中塚健也戦略広報監も都内にいた。元日と同じ幹部3人がそろって石川を離れる事態に、危機意識の薄さを指摘する声も上がっている。

馳知事が岸田首相と面会するのは、県の復興基金に520億円の交付税を措置すると決めたことへの謝意を伝えるためだった。3日午前9時ごろから官邸で面会する予定で、2日午後に北陸新幹線で東京へ向かい、都内の自宅に泊まったという。

しかし、3日早朝に地震が発生したことから、予定をキャンセルして石川へ戻ることに。西垣副知事、中塚広報監とともに新幹線に乗り、午前11時すぎ、県庁に入った。地震を受けた県の対策本部員会議は同11時50分に始まった。

西垣副知事、中塚広報監はともに馳県政になって起用された「いわば知事肝いりの人材」(県関係者)。西垣副知事は危機管理監室の担当でもある。県庁では、元日も馳知事、西垣副知事、中塚広報監がそろって都内におり、県内に残っていた徳田博副知事が陣頭指揮を執った。
今回も同じ状況で、ある県幹部は「まだ防災服を着ている非常時に、知事と副知事が一緒に県外へ出るのは、危機管理上いかがなものか」と苦言を呈した。
別の幹部は「首相と面会するためなので上京するのは仕方ない」と理解を示す一方、重要な場面で再び石川を離れていた知事に「間が悪いとしか言いようがない」と苦笑いを浮かべた。

馳知事は対策本部員会議後、報道陣の取材に対し「元日は休暇、今回は官邸へのお礼という事情は理解してほしい」と語った>(以上)
仕事場は石川県、休日は東京で過ごす・・・職場と自宅を毎週のように行き来するという知事は珍しくないのかも知れないが、移動も公費なのだろう、ナンカナーの感じはする。

小生は「常在戦場戦間期」という言葉が好きだが、これはアンブローズ・ビアスの1911年の著作「悪魔の辞典」が原典かと思っていたら、日本では「『常在戦場』は江戸時代の長岡藩(今の新潟県長岡市)の精神規範。戦場の生活を予測して、平素から質素倹約を励行し、ともに心身の鍛錬をして、教養を向上させようという考え方」が初出らしい。いずれにしても「油断大敵、常に危機意識を持ち警戒せよ」という教えだろう。馳知事やその配下の人々には「常在戦場」の警戒心がほとんどなかったのではないか。

荷風の日記「断腸亭日乗」によると、危機意識を持っているのはおもにインテリで、庶民は1945年の米国による日本殲滅「焼夷弾無差別大量殺りく絨毯爆撃」で初めて慌て出したようである。もっとも「危機意識」を持っていても、谷崎潤一郎のように疎開用別荘を用意する人はまれだったろう。一人身の荷風翁はほとんど備えもなかったが、「生きたい、野垂れ死には嫌だ」という生存本能を前にして谷崎の好意で大いに世話になったが、内心、忸怩たる思いだったようだ。
荷風は1879/明治12年生まれ、谷崎は1886/明治19年生まれだから、荷風は先輩である。「永井荷風と谷崎潤一郎」で検索したら「谷崎の文壇デビューは1911/明治44年、荷風の推奨による」とあった(金沢近代文芸研究会)。当時、荷風は慶応義塾を創設した福澤諭吉翁に「三田文学」編集を依頼され、その11月号で、荷風が強力に谷崎を推賞したという。谷崎にとって荷風は大先輩であり大恩人だったわけだ。

1930/昭和5年8月20日、荷風は「断腸亭日乗」にこう書いている。
<谷崎潤(一郎)氏の書に接す。あまりに可笑しければ次に記す。「拝啓。炎暑の候 尊堂 益々御清栄 慶賀奉り候。陳者(のぶれば)、我ら三人この度合議を以て千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成、潤一郎娘鮎子は母と同居致すべく、素より双方交際の儀は従前の通につき右御了承の上一層の御厚誼を賜りたく、何れ相当仲人を立て御披露に及ぶべく候へども取あえずご通知申上候。敬具。
昭和五年八月。谷崎潤一郎 千代 佐藤春夫  永井荷風殿 なほ小生は当分旅行致すべく不在中留守宅は春夫一家に托し候間この旨申し添え候 谷崎潤一郎>(以上)

荷風は、一流芸者ながら家事が何もできない女を嫁さんにして失敗し、一族からも「永井家の恥」と嫌われ追放されてしまった。以来、専ら市井の気のいい水商売や娼婦の女を取り換え引き換えパートナーにしてきたが、敗戦末期に疎開先で荷風を師と仰ぐ谷崎夫妻に大いに世話になったものの、作家としても人生の生き方としても、荷風と谷崎は違い過ぎた。プライドの高い荷風にとって谷崎の親切は思い出したくないことだったようだ。金沢近代文芸研究会はこう結んでいる。

<(荷風と谷崎は)淡々とした付き合いではあったが、同じ考えを持つ芸術家同士、2人は「師弟関係」を一つの核として、生涯、美しい関係を保ったといえよう。ただ、そこには、痩身気質と肥満気質の違い、武家町育ちと下町育ちなど、生活観の違いなどがはっきりあり、お互い密着すれば破綻するということも重々わかっていた。それが、いわば、つかず離れずの関係となり、交友を長く存続できた理由なのであろう>(以上)

人間(にんげん)は人間(じんかん)で生きる。「孤高の人」という言葉があるが、実際には孤立しては生きていけない。群れる動物は強いボスを求め、その傘下で食糧、安全を確保する。子分たちはボスが「右へ」と言えば右へ、「左へ」と言えば左へ動く。
政治家はしょっちゅう選挙があるから不安定な仕事である。4年間とか6年間に1回は選挙という洗礼を受ける。まるでバクチダだ。「議員が代々の家業」という人はいるが、それ以外の人は常に落選の危機を抱えているから、有権者の顔色を見て右往左往するようである。家業政治家以外の議員でまともな人はいるのか? 社会で食いはぐれた無為徒食のような、どう見ても「仕方がない、議員にでもなってみるか」というようなボンクラが比例代表で当選したりしている。
安倍晋三氏のような「志」を持った政治家出でよ!と思う愛国者が増えて欲しいものである。
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*読者諸兄の皆さま、御意見を! ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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渡部亮次郎 「頂門の一針」ryochan@polka.plala.or.jp
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