続)インドの“バランス外交”

続)インドの“バランス外交”
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」146/通算578 2023/3/5/日】「インド人」と言うと小生の世代(70代以上)はお釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)、ガンジー、チャンドラ・ボース、パール判事、ネール首相を思い出す。それとインド象も。

<昭和24(1949)年9月、まだ空襲の焼け跡が残る東京にインドから1頭の象がやって来た。戦争中、象をはじめ上野動物園の動物たちは、脱走すると危険として処分された。「象が見たい」という子供たちの願いに応えて、当時のネール首相がプレゼントしてくれた。象の名前は「インディラ」。

ネール首相の娘で、後に首相になったインディラ・ガンジーさんの名を付けた。象のインディラは「インドの子供たちからの愛情と好意の使者です」というネール首相のメッセージを携えていた。そして昭和58(1983)年に49歳で死ぬまで日印友好のシンボルとして愛された>(「象のインディラは友好の使者」産経2015/5/8)

人物では“戦老”の小生は勇武のチャンドラ・ボースが好きだ。波乱万丈、実にドラマチックな人生だった。月刊誌『歴史人』2023/2/28「インド独立運動家チャンドラ・ボースを無事に運んだ日本海軍の名物潜水艦・伊29」から。

<「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期に、ヨーロッパの地に留まっていることは、まったく不本意の至りである」

これは英米に宣戦布告し、瞬く間にイギリス領香港やマラヤ(18世紀から20世紀にかけてマレー半島からシンガポール島にかけて存在した英国の海峡植民地)を攻略した日本軍の、驚くべき快進撃を耳にしたインド独立運動家スバス・チャンドラ・ボースの言葉である。

過激な独立運動家であったチャンドラ・ボースは、インドの宗主国であったイギリスから危険視されていて、第2次世界大戦が勃発するとカルカッタの自宅に軟禁された。だが1941年4月2日、協力者によりイギリスの敵国であるドイツのベルリンに潜伏することに成功していたのだ。

“敵の敵は味方”という考えのもと、ボースはインドへの攻撃を含む、インド独立のための覚書をドイツ外務省に提出。だがドイツ側の回答は「インド攻撃には2年間は待ってもらわなければならない」という、ひどく期待外れのものであった。ヒトラーはこの時、イギリスとの早期和平を望んでいたのである。

ボースは(イタリアの)ムッソリーニにも協力を求めるため、ローマにも赴いたが、わずかにチャーノ外相と面会できたにすぎなかった。こうしてヨーロッパで悶々とした日々を過ごしていた1941年12月(真珠湾攻撃と同時に始まった)日本軍によるイギリス領香港やマラヤへの攻撃を知ったのであった。ボースはすぐさまドイツの日本大使館に接触し、日本に行くことを熱望したのである。

日本大使館も当初は「考慮中」という冷淡な回答しか出さなかった。当時の日本は外務省、陸軍参謀本部ともにインド情勢に関しての分析が進んでいなかった。だがマレー作戦が順調に進み、海軍は昭和17年(1942)4月、セイロン沖海戦で連合国海軍を撃破。インド洋のイギリス海軍の勢力を大きく後退させることに成功している。

こうして日本軍は本格的にインド方面への侵攻を視野に入れるようになり、1942年6月15日にシンガポールを拠点として「インド独立連盟」が設立された。指導者には1915年から日本に逃れていた、インド独立運動家のラース・ビハーリー・ボースが就いている(チャンドラ・ボースと血縁関係ではない)。

ビハーリー・ボースが体調を崩したため、その後継者として注目されたのがチャンドラ・ボースである。だが欧州からアジアに至るまで戦争状態のため、イギリスの植民地であったインド人がドイツから日本まで移動するのは、陸路はもちろん海路や空路のいずれも困難であった。日独両政府が協議した結果「潜水艦による移動がもっとも安全」ということになったのである。

ドイツのUボートにボースを乗せフランスのブレストを出港し、マダガスカル島の東南沖で日本の潜水艦と会合。そこでボースは日本の潜水艦に乗り換え、日本占領下のインドネシアへと向かい、航空機に乗り換えて日本へ向かう、という作戦であった。この作戦に選ばれたのは、伊号第29潜水艦(伊29)であった・・・>

凄い人生だが、チベット出身で日本に帰化した政治学者・ペマ・ギャルポ氏の人生も凄い。

<PEMA Gyalpo 政治学者、桐蔭横浜大学教授。1953年チベット・カム地方ニヤロン(現・中華人民共和国四川省)生まれ、59年にダライ・ラマ14世に従いインドに亡命、65年訪日。亜細亜大学法学部卒業、上智大学大学院中退、東京外国語大学アジア・アフリカ研究所修了。ダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区担当初代代表、チベット文化研究所所長、拓殖大学海外事情研究所客員教授、ブータン王国首相顧問など歴任>

チベット系日本人のペマ・ギャルポ氏によると、小生がチャンドラ・ボースを知るきっかけになったのはインドのモディ首相による啓発だったかも知れない。ペマ・ギャルポ 氏の「チャンドラ・ボース復権に込めたインド・モディ新政権のサイン」nippon.com 2014/7/10から。

<【チャンドラ・ボース復権が意味するもの】モディ氏はいろいろな場面で日本と安倍政権に好意的な発言を繰り返し、称賛、敬服している。モディ氏は選挙中、インド独立のリーダー、チャンドラ・ボースに国として文民の最高の勲章を贈ると言明した。

ネルー以来インドの歴代首相は日本と友好関係を保ってきた。特に戦後日本の主権回復と国際社会への復帰にとても前向に協力してきた。アメリカを初め多くの国々から招待受けた中で日本を優先的に訪問先にする姿勢を示したのも、単に経済的な理由ではなく、地政学的、精神的にも、日本との関係者を優先している証である。

モディ首相は自分のリーダーとしての立場を明確にし、国会議員の自覚を求め、気運と緊張を煽っている。日本でも安倍政権誕生で国民の気運が前向きになったように、モディムードがインド国民に自信と期待感をもたらしている。その原動力は、リーダーの前向きな言動にあると思う>

直近のFNNプライムオンライン2023/3/4が「岸田首相が、3月中旬にインドを訪問し、モディ首相と首脳会談を行う方向で調整していることがわかった」とこう報じている。
<2023年5月に広島で行われるG7サミット(主要7カ国)首脳会議で議長を務める岸田首相は、2023年に入り、メンバー国5カ国を訪れ、各国首脳と会談を行っている。

政府関係者によると、岸田首相は3月19日から21日までの日程を軸にインドを訪問し、モディ首相と会談する方向で調整していて、2023年のG20(先進20カ国・地域)の議長国であるインドに対し、サミットへの協力を求めるほか、ウクライナへの侵攻を続けるロシアへの対応などについても協議するものとみられる>
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以下、WIKIから引用する(出典は森瀬晃吉「第二次世界大戦とスバス・チャンドラ・ボース」らしい)。

<スバス・チャンドラ・ボース(1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 - 1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージー(指導者)の敬称で呼ばれる。

1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタックに生まれた。父親は弁護士で、イギリス人により過酷な扱いを受けていたインド人の人権を擁護することもしばしばであった。ボースはこの父親から大きな影響を受けたと語っている。

カルカッタ大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発した。ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた。同大で学士号を取得し、1919年にイギリスのケンブリッジ大学に大学院留学した。大学院では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している。

1920年頃からボースはインド独立運動に参加するようになり、1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた。

歴史を通じて、日印関係は常に強かった。第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍はイギリス軍との戦いで、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍とともに戦った。インドと日本は双方の歴史における困難な時期において、お互いを支えあってきた。

両国はインドの独立後も良好な関係を保っている。2006年12月、マンモハン・シン首相は日本を訪問し、「日印戦略的グローバルパートナーシップに向けた共同声明」に調印した。2007年には海上自衛隊がインド海軍やオーストラリア、シンガポール、アメリカ合衆国とともに行ったインド洋での合同軍事演習に参加した>(WIKI引用終わり)

2022年10月の森口隼氏/三井物産戦略研究所国際情報部アジア・中国・大洋州室「地政学から見たインドの外交姿勢 多極化時代に対応する「等距離外交」戦略」のサマリーは直近の現状を要領よくまとめているので以下転載する。

◆インドは、ロシアとは「特別で特権的」な関係を維持している。ウクライナ侵攻をめぐり、西側諸国を中心としたロシアへ経済制裁を課す動きから距離を取り、対話と外交努力が紛争解決の唯一の道と主張する。

◆ 一方、周辺国に目を向けると、対中関係の悪化、アフガニスタン政変など、地政学リスクが高まる状況にある。中国を牽制するために日米豪印クワッドへ傾斜するものの、アフガニスタンからの米駐留部隊撤退により、敵対するパキスタンの影響力が域内で増大するという、インドにとって避けたかったシナリオに直面した。このため米国に対する不信感も抱く。

◆ 現代の多極化する国際政治構造において、インドはいずれのブロックにもくみすることのない「等距離外交」を貫くことで、自国の存在感を強めようとしている。(以上)

「等距離外交」・・・どっちつかず、曖昧戦略、中立維持。マキャベリは「これは戦争に巻き込まれたくない、交戦国のどちらとも距離を保つ、という一見良さそうな姿勢だが、戦後には戦勝国からも敗戦国からも嫌われるからよろしくない。どちらかについた方がいい、たとえ負けても戦勝国からも敗戦国からも敬意は表される。保身のために逃げた奴と軽蔑されるよりは遥かに良い」。

それはインドも承知していることだろうが、中共による侵略を阻止するためにプーチン・ロシアと手を握っているのに、そのプーチンが暴走して国際秩序を破壊し、国際社会から大顰蹙を買ってしまったのは想定外だったろう。当然、対中安全保障は低下するし、「インドはプーチン寄り」と国際社会で信用を落としかねない。

モディ首相は2022年9月、プーチンに「今は戦争の時でない」と苦言を呈したが、11月末に掲載された英紙テレグラフへの寄稿でも「今日、われわれに生存のための戦いは必要ない。われわれの時代は戦争の時代ではない。実際、絶対にそうであってはならない」と訴えたという。

「インドは米国との安全保障関係の強化を図る一方、ロシアを非難するよう求める米国の呼び掛けには応じていない。ウクライナ侵攻を受け、西側とロシアの双方との関係維持に腐心するインドのバランス外交の難しさが浮き彫りになっている」(AFP)。

プーチンに理性が残っているのなら、モディ首相はプーチンに「まずは侵攻を停止し、調停は私に任せろ」と呼びかけて欲しいものだ。それができるのはチャンドラ・ボースの勇気を讃える“中立大国”インドのモディ首相しかないと小生は思うのだが・・・
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