加瀬氏ら先達の志を継げ

加瀬氏ら先達の志を継げ
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」108/通算540 2022/11/22/火】PCがウイルスに感染したのか、1週間ほどグロッキー状態になっていたが、画面下のセキュリティのボタンを押して操作してみたら症状がかなり改善した。アナログはタフだが、デジタルは軟弱でイザ!という時に使えなくなるだろう。デジタルは便利だが、依存し過ぎるとリスクはとても大きい。

先日、図書館から借りて「目に見えない戦争 デジタル化に脅かされる世界」(イヴォンヌ・ホフシュテッター著)をざっくり読んだが、「便利≒危険」と心得、敵を迎撃、破壊、駆除、殲滅する能力を持たないと、ハッカーにいいようにやられて餌食になってしまうから気をつけろ、という論のようだった(ドイツ人は咀嚼して分かりやすく書くのが苦手? 難しく書くのが好き?)。

我々は日々、有象無象、清濁混合の情報豪雨にさらされている。憂国の士やまともな論客から金銭亡者、ゴロツキ、中露北の手先のようなアカによるものまでどっさり。優れた論客やメディアなど「信頼できる情報源」を持つことは、現在のような第3次世界大戦危機の時代にはとても重要である。

産経2022/11/16を見てビックリした。タイトルは「外交評論家の加瀬英明氏死去 保守派の論客」。氏は小生の「信頼できる情報源」でもあった。以下引用。

<保守派の論客として活動した外交評論家、加瀬英明さんが15日、老衰のため死去した。85歳。葬儀は家族葬で行い、後日しのぶ会を開く予定。

東京生まれ。慶応大、エール大、コロンビア大で学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」編集長を経て、評論活動に入る。外交評論家として豊富な人脈を築き、過去の首相や外相の特別顧問として対外折衝にあたった。

近年は、海外で流布した反日的な情報や言説に反論する活動に尽力。米下院で慰安婦問題をめぐり対日非難決議案が提出された際には、米誌に反論を寄稿。代表を務める団体が、慰安婦に関するパンフレットを作成し、米議員らに送付したこともある。著書は「昭和天皇の苦悩 終戦の決断」など多数>

産経姉妹紙の夕刊フジ(zakzak 11/16)は「外交評論家の加瀬英明氏が死去、85歳 『台湾こそ自由世界と中国共産党との対決の天王山』などウクライナ含む複合危機に警鐘」とこう報じた。

<昨年12月、夕刊フジに掲載した連載「日本を守る」では、ロシアによるウクライナ侵攻の危険性を事前に指摘し、「当然、アジア太平洋が手薄になる。龍(中国)はその隙を狙って、台湾に襲いかかるのではないか」「台湾こそ自由世界と中国共産党との対決の天王山」「中国が台湾を奪ったら、日本は独立を維持できない」と警鐘を鳴らしていた>

産経は2022/11/17のコラム「産経抄」でも加瀬氏を悼んだ。

<外交評論家の加瀬英明さんは、外交官の父に連れられて生後6カ月で英国に渡り、3歳で帰国している。小学3年生で終戦を迎えた。当時から「保守派の論客」の兆しはあった。

▼戦後すぐは子供の読み物がなく、少年向きの愛国小説を読みふけった。横須賀市内の中学校に通っていたとき、行き帰りにアメリカの軍艦を見ながら、日本を再び独立国に、との思いを募らせていた。左翼嫌いが決定的になったのは、「60年安保騒動」で左翼のデモ隊の狂態を目の当たりにしてからだ

▼ロシアによるウクライナ侵略と台湾有事の「複合危機」に警鐘を鳴らしていた、加瀬さんの訃報が届いた。85歳だった。初めて雑誌に国際情勢についての記事を発表したのは19歳だった。今年に入ってからも著作を刊行しているから、60年以上書き続けてきたことになる

▼歴代首相の特別顧問として対外折衝にも当たった。ただ通常の外交官と違って、自由に発言してきた。たとえば自伝によれば、ニューヨークの知人宅で紹介された元米陸軍長官とこんな会話を交わしている。「もし日本が原子爆弾を持っていたら、核攻撃を加えただろうか」「あなたは答えを知っている。もしそうなら、日本に対して使用することはなかった」

▼加瀬さんは、ビートルズの元メンバー、ジョン・レノンの夫人、オノ・ヨーコさんのいとこにあたる。日本文化を愛したレノンの平和主義と神道とのかかわりについて2年前に書いたことがある。すると加瀬さんは数日後、夕刊フジに連載中のコラムで念を押していた

▼「ジョンはベトナム戦争で戦ったベトナム人民を支持し、日本が米国の不当な圧迫に耐えられず、立ち上がって戦ったと信じた。やわな平和主義者ではない」>

ジョン・レノンは「やわな平和主義者ではない」?・・・小生は中学生の頃からデビューして間もないビートルズが大好きだったが、1970年代初めの解散以降は、レノン(1940/10/9 - 1980/12/8)とオノ・ヨーコの合作「イマジン」を保釈後の1972年頃に聞いて、「なんて甘いことを言っているのだろう」とシラケたものである。Akihiro Oba氏の歌詞和訳では、

<♪想像してごらん 何も所有しないって あなたならできると思うよ 欲張ったり飢えることもない 人はみんな兄弟なんだって 想像してごらん みんなが世界を分かち合うんだって・・・

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね でも僕一人じゃないはず いつかあなたもみんな仲間になって そして世界はきっとひとつになるんだ>

甘過ぎ! 過ぎたるは猶及ばざるが如し! 今でも小生は「人間は戦争と平和を繰り返す」と思っている。戦争に疲れると終戦を求め、それなりの平和(終戦、休戦)になり、当初はその戦後体制を「良し」とか「やむを得ない」としていたものの、基本的に「妥協の産物」なのだ。やがて双方ともに不満や疑心暗鬼が高じて「遠交近攻は世の倣い、やっぱり我らは奴らとは共に天を頂かず、撃ちてし止まん!」・・・歴史はその繰り返しだ。

加瀬氏はレノンをどう見ていたのだろう。産経2016/12/8「ジョン・レノンは靖国の英霊に祈った 外交評論家・加瀬英明(正論11月号より)」によると小生の見方はレノンの人格のごく一部だったようだ。

<2016年はビートルズの来日公演から50周年。1980年12月8日にニューヨークのマンションで射殺されたジョン・レノンが生きていれば、10月9日には76歳の誕生日を迎えていた。ジョンの妻、オノ・ヨーコは私のいとこで、私自身もジョンと親しくつきあわせてもらった。反戦平和を歌い、左翼的な政治運動にも身を投じた彼は「ラブ&ピース」のイメージで知られるが、私の知る彼は違う。 

印象に残っているのは、ジョンが日本の神道に強い関心を示していたことだ。よく中国や韓国の指導者や日本の新聞が、わが国の政治家の靖国神社参拝を批判するが、ジョンも靖国神社を参拝している。このことを私が講演などで話をすると、彼の「ラブ&ピース」のイメージと靖国が結びつかないのか、「本当なの?」と問い合わせを受けることもあるのだが、事実なのである。 

ジョンがヨーコに連れられ、靖国を参拝したのは71年1月だった。私は同行しなかったが、リラックスした二人を撮影した外国通信社の写真が残っている。穏やかに微笑むジョンに、ヨーコが何か説明しているようにも見える。当時はまだA級戦犯合祀が政治問題化はしていなかったが、彼は、戦場に散った日本の英霊をまつる靖国という場所を嫌っていなかった。

それからしばらくして、私はジョンに「先の日米戦争はアメリカからふっかけられ、日本は自衛のためにやむなく戦った。日本人はアメリカに攻撃されたベトナム人民と変わらなかった」と説明したことがあるのだが、その時も彼は納得した。あくまで私の推測だが、当時のジョンはアメリカという国に批判的で、ベトナム戦争などを挙げながら「侵略戦争を戦う国だ」などとよく口にしていたから、日本は米国に対し「正義の戦争」をしたと思ったに違いない。

ジョンは伊勢神宮にも足を伸ばしている。森に囲まれた神宮に魅せられたのだろうか、彼は私に「神道の森は素晴らしい。キリスト教の教会は街の中にあって、周りに自然が少ない」と話していた。

私はジョンに神道の自然観を説明したことがあるのだが、そのとき、英国出身者なら誰でも親しんでいる「クマのプーさん」の話をした。プーさんは森で、少年や動物たちと「平等の仲間」として楽しい日々を過ごしている。日本人にとっても動物から草木に至るまでの全てが仲間だから、人間中心主義を戒めるかのようなプーさんの物語は神道に通じるという話をした。そのとき、ジョンはわが意を得たりとばかりに目を輝かせて「その通りだ」と言っていた。

【好きな日本語は「オカゲサマ」】いただきます、ごちそうさま・・・ジョンは、日本人の価値観を感じさせる、英訳が難しい言葉が好きだった。これらの言葉は神道の教えにも通じるのだが、ジョンは「特に『オカゲサマ』が良い」と言っていた。「おかげさま」は、宇宙が誕生して以来の森羅万象に対する感謝の気持ちを現す語感を含んでいる。ジョンは優れた詩人だったから、森羅万象に対する感覚が鋭敏だったのだろう。

キリスト教は嫌いだったようだ。名曲として知られる「イマジン」では「地獄も天国もあったものではないと想像してごらん」と歌っている(*1)。明らかなキリスト教への批判で、過激な歌だった。宗教つまり「レリジョン」の語源のラテン語には「縛る」という意味がある。ジョンは、一神教が人を必要以上に縛る、人による自然支配を肯定しているために、違和感を覚えていた。

多神教の神道では、自然の細部に至るまで神が宿り、人は自然を尊ぶ。人は自然の一部にしかすぎない。聖書のような教典も存在しないため「縛る要素」が少ない。私が「イマジンは神道の世界を歌っているのではないか」と尋ねると、ジョンは賛同してくれた。

ジョンに神道の魅力を教えたのはヨーコだ。私たちの近い祖先に神主がいることも関係しているのかもしれない。ヨーコはウーマン・リブなど男女平等運動や左翼的活動の旗手になったことで誤解されているが、実は「明治の女」なのだ。男につくすし、日本文化にも造詣が深い。折り目正しいところもあり、決して本当の「左」ではない。がんじがらめな因習や、窮屈な日本の人間関係が嫌いなだけなのだ。

ヨーコは私の4歳上で、幼い頃は「ヨーコ姉ちゃま」と呼んでいた。我が一族の間では長いこと「イギリスの歌い手と一緒になったらしい」などと厄介者の扱いをされていたが、私はどういうわけか気が合った。

私は演歌が好きで、もともとビートルズやジョン・レノンという人物にあまり関心がなかったから、ヨーコがいなければ、ジョンと話したいと考えることもなかっただろう。1966年にビートルズが来日したときも、会場の日本武道館の会長を務めていた正力松太郎氏から「ピヨトルズという合唱団を呼ぶことになったから切符をあげましょうか?」と誘われたが、断ったほどだ。 

しかし、ジョンと知り合ってみると、年が近いこともあり(ジョンは1940年生、加瀬氏は1936年生)気が合った。彼は他愛もない話が好きで、ビートルズで作詞作曲のコンビを組んだポール・マッカートニーの名をあげながら「ポールと一緒にハドソン川の上空でUFOを見たことがある」とも言っていた。「銀の棒を組み立ててつくったピラミッドの下にタバコを置いておくと味がよくなる」などと嬉しそうに話していたこともあった。

地球外生物がいると本気で信じていたから、私は「お化けがいないのを証明するのは不可能だから信じるよ」と応えた。ジョンは神秘的なものを求めていて、それが神道への関心につながったにちがいない。  

【ポール来日めぐり大恥かいた】彼の偉大さを知ったのは、1970年のビートルズ解散後で、知り合ってかなり経ってからだ。 

70年代の半ばだったか、来日した彼を東京・新橋にあった「ルーブル」というバーに誘ったことがある。うす暗くて狭い店に二十五、六歳くらいの若い男のギター弾きがいて、髪を短く刈っていたジョンに気づかずに私がリクエストした「イマジン」を歌い始め、ジョンがハミングで調子を合わせた。演奏後に「ジョン・レノンだよ」と明かすと、ギター弾きは感動のあまり、子供のように声を上げて泣き始めた。このときに初めて「ジョンはこんなに有り難い存在なのか」と気づかされた。

余談だが、ヨーコからの「お願い」で大恥をかいたこともある。ジョンが撃たれる前、米国から電話がかかってきて、「ポールが日本公演を予定しているみたいだけどビザがおりないそうなの。なんとかしてくれる?」と頼まれたときだ。

ポールの薬物犯罪歴を理由に法務省がビザを取り消していたようで、私は当時、官房長官などを歴任した園田直氏と仲が良かったから、「なんとかしてほしい」と頼み、園田氏も即座に関係者に電話で「とにかくビザを出してやってくれ」と働きかけてくれた。それなのに、ポールは成田空港に降りた直後に大麻所持で捕まってしまった。サ行の発音が苦手な園田氏から「カシェくん。ひどい恥をかきました」と責められたものだ。(*2)

私に電話があったのはジョンがヨーコに協力を頼んだからかもしれない。ポールとはビートルズ解散前後に不仲だったジョンだったが、限りなく優しい人だったからだ。彼がニューヨークで日本語の勉強ノートを見せてくれたことがあった。言葉の横に上手な絵も描かれており(彼は若い頃に美術学校に通っていた)、本気で感心したら、次に訪米したときに立派な皮の表紙をつけてプレゼントしてくれた。「from your cousin John(あなたのいとこのジョンより)」とサインを添えて。

最後に会ったのは亡くなる1年ほど前だったと記憶する。最後になるとは思っていないから会話の中身は覚えていない。63年にはケネディ元米大統領も射殺されていたし、ジョンが撃たれたと知ったときは直感的に「ヒーローとはこういうものなのかな」と思った。いま思うに、彼ほど優しい人間には会ったことがない。私が彼に重ねたイメージは、まさに神道の世界に通じる「生き神様」だった。(談)

《加瀬英明氏 1936/昭和11生まれ。慶応大学卒業。福田赳夫、中曽根康弘両内閣で首相特別顧問を務める。母親は元日本興業銀行総裁の小野英二郎の娘。オノ・ヨーコ氏は、母の兄の娘》>(以上)

*1)オリジナルの歌詞は、Imagine there's no countries/ It isn't hard to do/ Nothing to kill or die for/ And no religion too

*2)園田直氏は自民党の政治家。WIKIによると主な経歴は――
1967年 - 11月 第2次佐藤栄作内閣で「厚生大臣」として初入閣。
1968年 - 11月 「自民党国対委員長」に就任。
1969年 - 1月 園田派会長に就任。
1972年 - 7月 園田派を解消し福田派に合流。
1976年 - 12月 福田赳夫内閣で「内閣官房長官」。
1977年 - 11月 福田赳夫改造内閣で「外務大臣」。第1次大平正芳内閣まで留任。
1978年 - 8月12日 外相として日中平和友好条約を締結。
1979年 - 11月 四十日抗争で福田派から除名処分。
1980年 - 9月 斎藤邦吉厚相辞任で後任の」厚生大臣」に就任。
1981年 - 5月 伊東正義外相辞任で後任の「外務大臣」に就任。
1984年 - 4月2日 慶應義塾大学病院で糖尿病からくる急性腎不全のため死去。70歳

園田氏の経歴を紹介したのには訳がある。小生は2003年からの病気療養中に無聊の慰めに宮崎正弘氏のメルマガを読むようになり、そこに渡部亮次郎氏が主宰するメルマガ「頂門の一針」が紹介されて以来、2紙とも目を通すようになった。

渡部氏はNHKの政治部記者だったが、田中角栄に嫌われたためか左遷され、1979年頃にNHKを辞めて園田氏の秘書官になった。渡部氏は「園田直・全人像」 (1981/3/1)、「さらば実力者」(1984/1/1)を上梓している。

渡部氏が「頂門の一針」をスタートさせたのは2002年か2003年あたりだったと思う。杜父魚(かじか)文庫に保存されている渡部氏の2003/3/23論稿「ジョン・レノンの印刷所」には加瀬英明氏との交流も記されている。以下引用する。

<◆ ジョン・レノンを知らなかった。訳の判らないうちにニューヨークで夫妻に会って、イタリア街で共に食事を戴く羽目になったのだ。気がつけば外は大変な人だかりになっていた。ジョン・レノンて誰なんだ。

私はその何ヶ月かまえ、NHKの記者から政府の外務大臣秘書官になっていた。そこへ友人の加瀬英明がやってきて「ナベちゃんは今までアメリカへ行ったことが無い。外務大臣の側近がいまだにアメリカを知らないと言うのはあなたの恥だろう」と言ったら園田直外務大臣は二人に黙って大金をくれた、行って来いというのであった。

◆ 私と加瀬さんとは文藝春秋での繋がりである。共に昭和11(1936)年生まれ。彼はアメリカ留学直後から文春の常連執筆者だった。一方私はどういうわけか文春の看板コラム「赤坂太郎」に指名されて一字10円で政界夜話を書いていた。NHKの月給より高かった。編集長の紹介で二人は知り合いとなった。

ところが加瀬さんと園田さんはもっと古い「友人」だったのだ。たとえば二人はよく柳橋で芸者をよんで呑んでいた。なぜだ。加瀬さんの父親俊一(としかず)が外務省高官であったころ園田氏は外務政務次官として加瀬家に出入りしていた。英明氏は高校生である。それを園田氏は柳橋に連れ出して芸者遊びを教えたのである。二人はそういう「友人」だったのだ。

私がアメリカを学びに行くことを二人は初めて柳橋に行く時の高校生・加瀬のように思っていたことだろう。

◆ 加瀬氏ははじめにロス・アンジェルスに降りた。目的地はニューヨークかワシントンだった。そのためには当時、羽田からはアンカレッジに一旦降りるしかなかった。加瀬が言うにはロス・アンジェルスで遊んだ方がいい、アンカレッジなんか詰まらん、という。詰まるも詰まらんもお上りさんとしてはハイハイ。それが良かった。

◆ ロスは解禁になったばかりの「ポルノ」の街のはずだった。昨日まで記者だったから、その程度のことは知っている。

総領事館から案内があって「ポルノ」映画館に入った。今の若い人にはわかるまいが、その頃の日本では性器はおろか毛の一本が映っていても雑誌は「発禁」だった。だから私はポルノに興味津々だった。だから折角ならポルノ映画鑑賞を言ったのだ。

ひょいと見回すと、観客は3人しか居ない。要するに我々だけだ。アメリカ人の観客は一人もいないのだ。なぜだ。一度みれば二度と観たくないのがポルノなのだなあ。私は42歳になったばかりだった。

◆ ダコタ・アパート。それがジョン・レノンの自宅だった。生まれて初めて見るニュー・ヨーク。「ナベさん、ビルの階を数えちゃダメだよ、首が折れる」加瀬氏の冗談とも本気とも取れる言葉を聞きながら御のぼりさんは興奮しているうちにセントラル・パークに接して聳えるダコタ・アパートに着いたらしい。

エレベーターが着いたら若い茶色の頭をした男が立っていて握手をした。男は幼稚園児みたいな男の子を抱えていた。ショーンといってヨーコさんとの一粒種だった。玄関ホールが30畳ぐらいあり、そこに三角屋根を幾つも張って、今、三角のエネルギーを体内に受け取る研究をしているんだ、とのことであったが、要するにわからなかった。

加瀬氏が近況を尋ねたところ、もう歌うことはしないという。どちらかと言うと主夫だよ、そのほうが楽しいよ、と。「私は英国リバプールという風の強い町の坂の上で育ち、海からの向かい風に向かって話すような育ちをしたから、叫ぶように喋る癖が残っている」と妙なところで恥かしがっていた。

◆ やがて夜になりアパートの玄関に降りたら、やたら長い運転手付きの大型車が停まっていた。田舎者が初めて乗るこれがリムジンというものだった。何しろ生まれて初めてのニューヨークである。どこをどう走ったか判らないうちに細い路地の入り口で降りた。イタリア人たちが固まってレストランを営んでいるイタリア街であった。隣の区画は中華街で仲が悪いとのこと。

髭を伸ばした主人とはもちろん顔馴染みなのだろう、気安く会話を交わしていたが、こちらは久しぶりに美味しいものにあって夢中だった。なにしろロサンジェルスで食べたステーキは固くて食えなかったし、海岸べりのシーフード・レストランとやらでの焼き魚は醤油が無いので散々だったから腹が減っていたのだ。加瀬氏は外交官の息子でアメリカ留学生だったが、何故か料理の好みは和風である。だから彼もイタリア料理には満足していた。

ひょいと窓を見るとジョン・レノン来るを聞きつけて老若男女が何十人も外で鈴なりしていた。それでようやく相手が世界的な人気者とわかり出した。

◆ ヨーコさんを先に帰してから、恥かしそうにジョンは秘密の場所に案内したいがいいか、と聞いてきた。もちろんOK。

いま思い出すとそこはマンハッタン島の北であった。丘みたいなところにある古い工場であった。2階に案内されて行くと4人ぐらい、若い男女がおり、印刷していた。なんですか、これはと加瀬氏が聞くと、間近に迫ったヨーコの誕生日にモナリザをプリントしたスカーフを贈るべくヨーコの顔写真を使って製作中である、ヨーコはモナリザによく似ているから、素晴らしいスカーフが完成しつつある。ヨーコには秘密だよ、何しろこっそりと完成させるためにこの印刷所を買収したのだからというので、金持ちぶりに飛び上がった。

◆ ナベちゃん、驚いちゃいけないよ、アラブの金持ちが先日、ロンドンのデパートであるものを指差したので、店員がはい、こちらでしょうかと聞いたところ石油成金曰く、いやこのデパートを売ってくれと言ったそうだぜ、と加瀬氏。なるほど、世界の金持ちはケタが違うね、と沈黙。

今その時のメモを読み返してみると、ジョンはレストランで「ポール・マカトニーを日本に呼んで一儲けしたらどうか」と言った。だが帰国後調べたら、マカトニー氏はマリファナ吸引者として法務省のブラックリストに載っていて入国を拒否されていた(その後はOKとなった)。ヨーコさんの誕生日は1933年2月18日。モナリザ・ヨーコのスカーフは美しく出来上がったのだろうか。

ジョンは約2年後の1980年12月8日に玄関前で狂的ファンに射殺されたこと、ご承知のとおりである。まだ40歳だった>(以上)

小生は海外旅行業界紙の記者で、海外旅行関係以外の政治や外交の報道にはあまり関心がなく、同じ出版人として山本夏彦翁の作品は愛読していたが、病気療養の暇つぶしで近現代史を学ぶうちに宮崎、渡部、伊藤貫、高坂正堯、細谷雄一、マキアヴェッリ、モンテーニュ、古森義久、高山正之、加瀬など先輩の書籍、同時に「産経」「諸君!」「正論」「WiLL」なども読むようになった。

間もなくして渡部氏に「頂門の一針に投稿したい」とメールを送ると、「いいんじゃないか、書いてみれば」と背中を押してもらった。最初の記事は「真珠湾の罠」といったタイトルだったと思う。海外旅行とはまったく違うジャンルを書き始めてもう20年ほどになり、投稿するといつも掲載してもらえるので、今では「これが俺の天職であり、生き甲斐かも知れない」と感謝している。

加瀬氏の訃報を知って渡部氏に「加瀬氏の死を悼みます。加瀬氏にはもっともっと長生きしてほしかった、とても残念です。このところ渡部様は『頂門』の編集から離れているようですが、体調は如何ですか? 近況をお知らせいただければ幸いです」とメールしたところ、こう返信があった。

「本当に驚きました。ついこの間まで、投稿を戴いておりましたので信じられずに今もおります。最近では物書く気力、体力もなく、只々、皆様の投稿を楽しみにしております」

11/17の「頂門」に渡部氏はこう書いていた。「突然のことで未だに信じられずにおります。加瀬氏のご冥福を心より祈ります」

渡部氏の2006/5/4の論稿「中国迎合内閣は国を売る」を読むと、まるで「カミソリのような記者」の感で背中がゾクゾクするほど。加瀬氏のような優れた論客でも加齢は仕方がない。我ら後進としては先達の後継者として思いを繋いでいくのが仁義、使命だろう。「先輩をがっかりさせるような記事は冒涜でしかない」と小生は決意を改めている。
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