【枯野抄/感想】芥川の感じる世界
私は現代文の授業が好きだった。こう言うと同級生にはぎょっとされた。現代文好きは珍しいのかもしれない。確かに、あまりにも多くの生徒が寝ているので休憩時間を設ける先生や早めに授業を終える先生もいた。
個人的には絶対に読むことがなかったであろう作品に触れることができ、その内容まで解説してもらえる。だから私は現代文が好きだった。
高校生のとき、現代文の教科書に芥川龍之介の「枯野抄」が載っていた。松尾芭蕉の最期を看取るため方々から門人たちが集まるという話だ。
なじみがない古い言葉が多用されていて難解に感じるのだが、人の心の中を巧みに言語化していて感動したのを覚えている。教科書に載っている作品で初めて感動した。
今回は「枯野抄」の好きなところについて書いていきたい。
人の今際の際に生まれる安堵。誰かを看取ったことがある人は誰しも経験があるのではないだろうか。しかし、そのことについて語られることはない。口に出すことは憚られるけれども皆が共通して持っているその感情を、芥川はうまく言語化していると思う。
普通に考えてみれば人の死に際に安堵するなどというのは不謹慎なので、其角は心の中を悟られてきまりが悪かっただろう。
これも誰かを看取ったことがある人なら理解できるのではないか。
私などは「この人が亡くなったら自分はどうなってしまうんだろう」とか、家族や近しい人が亡くなったときのことを考えることがある。其角と同じように、きっと私もいざとなったら自分の想像以上に冷静なのだろう。
去来は芭蕉が重病であるとの知らせを聞き、「ほとんど彼一人が車輪となって、万事万端の世話を焼いた」。そうして1日も芭蕉の看病を怠ることはなかったという。それは「一身を挙げて師匠の介抱に没頭したという自覚」となり、「彼の心に大きな満足の種を蒔いた」のである。
支考と世間話をしているとき、得意になっていた彼は「自分は親に仕えるようなつもりで師匠に仕えているのだ」と長々と語った。そのとき人の悪い支考の顔に苦笑が浮かび、去来は「急に今までの心の調和に狂いのできたことを意識した」のである。そうして彼は気づいた。自分は芭蕉の容態よりも「師匠のために懸命に看病をする自分」を意識して満足していたと。
もうすぐ亡くなるであろう人に尽くすのは、「自分はその人のためにできるだけのことをした」と思いたいからかもしれない。その裏側には「その人との関係に悔いを残さずにおきたい」という気持ちがあるように思う。ひょっとすると「その人の中の自分を美しく飾りたい」という気持ちもあるかもしれない。冷たい言い方だが、どれも自分本位な感情だ。
去来は芭蕉のためにできるだけのことをしたいと思っていて、それが達成でき「良い弟子」となった自分に満足していたのだろう。
私にはそういう気持ちがわかる気がする。そして、詳しくは後述するが、人間は結局自分のためにしか生きられないものなのかもしれないと思う。
私は思い込みが激しいし性格も悪い部類に入ると自認している。そんな私の憶測に過ぎないけれども、乙州は正秀の慟哭が「自分は誰よりも悲しんでいますよ」というアピールに見えて不快に感じたのではないか。乙州も周囲も悲しんでいるのに、より大げさに悲しまれると自分たちが薄情であるように――師匠への思いが足りないかのように感じてしまう。それが厭わしかったのかもしれない。
似たようなことが集団生活ではままある気がする。こういう機微について考えられるのもこの作品のおもしろいところだ。
これは、最後の別れに支考が羽根楊子で芭蕉の唇を濡らす場面である。私はこの皮肉屋の支考という人物が好きだ。
支考は臨終間際の芭蕉を前にして、辞世の句がないことを気にかけたり、芭蕉の死後にはこれまでの彼の作品をまとめようと考えたりしていた。死に近づいていく師匠の様子を観察する支考の頭の中には、その様子を後日書物に記そうと考える自分がいるのだった。支考が気にかけているのは死の淵にいる芭蕉ではなく、名誉や手柄、損得勘定のことである。
去来が「懸命に師匠に尽くす自分」ばかり見ていたように、支考は自身の利益のことしか頭になかった。そしてその他の門弟たちも、「皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分達自身を悼んで」いた。それは芭蕉が「限りない人生の枯野の中で、野ざらしになった」――人生の最後のときに門弟たちに囲まれながら、されど誰一人として芭蕉のことを思ってはいないという寒々とした「枯野」に野ざらしになったということである。
支考は人間という生き物のことを「本来薄情に出来上がった」と語っている。今際の際の師匠ではなく自身の利益について考えていることや、門弟たちが死にゆく師匠ではなく師匠を失った自分たちを憐れんでいることを認識している彼はとても現実的な人だと思う。
作中ではこれを「厭世的な思考」としていたけれど、私には彼の言っていることがわかる気がする。
支考は芭蕉の唇を濡らし終わった後、泣いている門弟たちを嘲るようにして自席に戻る。門弟たちは自分自身を憐れんで泣いているのだから支考には滑稽でならないだろう。
東花坊というのは支考のことである。こんな時にも人を見下したような態度をとる彼の様子を見て其角は疎ましく思うわけである。其角の心中を察するに「はいはい皮肉屋乙」というところだろうか。その気持ちはわかる気がする。
ついに芭蕉は息を引き取った。丈艸は芭蕉の死に悲しみながらも、彼の死をもって「自由な精神」が解き放たれたことに喜びを感じるのだった。
当時松尾芭蕉は俳諧の大宗匠として仰がれていた。その門下に入るということは芭蕉から教えを受け、芭蕉の考えを引き継ぐということになるだろう。師匠の考えに異議を感じることがあっても本人の目の黒いうちにはそれを表出することはできまい。芭蕉亡き後はそれが叶うことになる。
私はこの門弟たちの力関係などはよく知らない。ただ「老実な禅客の丈艸」とあり、老実とは物事によく慣れていて誠実であるという意味だそうなので、もしかすると丈艸は芭蕉の一番弟子のような存在なのかもしれない。そう考えると芭蕉亡き後は彼がこの派閥のトップになるはずだ。2番手でじっと身を潜めていた彼にチャンスがやってきたとなれば、「解放の喜び」を感じるのも無理はないのかもしれない。
順番が前後するが、これは芭蕉が臨終する直前の場面である。
「家族に囲まれて死を迎えるというのが理想の死に方」などと聞いたことがあるが、芭蕉の場合は門弟たちに囲まれていても誰一人として芭蕉のことを考えていない。それが「人情の冷たさに凍てついて」という言葉で表現されている。この一文は現世の冷たさや厳しさを表しているように思う。
この作品は、門弟たちの心の動きを通して人間の身勝手さを描いている。そこから読み取れるのは人間という存在への諦念のような気がする。
芥川龍之介は自分を含めた人間に諦念を抱いていたのだろうか。彼が自ら命を絶ってしまったことはなんとなく知っている。彼ほど世界を解像度高く捉えてしまえば辛いことも多いだろう。
「羅生門」と「枯野抄」の他に芥川の作品を読んだことはない。今回改めて「枯野抄」を読んで芥川自身に興味が湧いたので、今後ぜひ読んでみたいと思っている。
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