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古くて私的なポーランド・ジャズのレコードたち

なぜ、ポーランドジャズなのか。なぜ、気になるのか。なぜ、魅せられるのか。それは今から40年ほど前に二本のポーランド映画を観たことによる。
そこで、私はひどく陰鬱な映画音楽そのテーマ曲を聴いた。
それが記憶の奥底にトラウマの如くこびりついている。
それからずいぶんと後、私は一枚のポーランドジャズのEP盤を買った。
深い意味などなかった。ヨーロッパ・ジャズがブームだった時期、それなら東欧のジャズとはどんなものだろうかという程度だ。かつて観たそんな二本の映画のことなども完全に忘れていた。

ここでの6人の主要人物は、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻とほぼ同時代に生を受けている。1945年まで続く第二次世界大戦、その時代、その場所、ポーランド、ウクライナいずれかの場所で。

●クシュショトフ・コメダ (Krzysztof Komeda)
(1931年4月27日)
●アンジェイ・クリレヴィッチ(Andrzej Kurylewic)
(1932年11月24日)
●アンジェイ・トシャコフスキ (Andrzej Trzaskowski)
(1933年3月23日)
●イェジー・ミリアン (Jerzy Milian)
(1935年4月10日)
●ヤン・プタシンヴルブレフスキ (Jan Ptaszyn Wroblewski)
(1936年3月2日)
●ズビクニェフ・ナミスウォフスキ(Zbigniew Namysłowski)
(1939年9月9日)

ズビクニェフ・ナミスウォフスキにいたっては出生の8日前の出来事である。1934年(昭和9年)生まれの私の父の世代だ。彼らはその激動の時代に幼少期を送り、やがてはスターリン主義時代のポーランドで青年期を送り、1953年スターリン死去、雪どけの時代を迎えるものの、まだまだ表現の自由が厳しかったその時代、ジャズが帝国主義の有害な産物として扱われた時代、ことあろうか彼らはそのジャズを選んだ音楽家たちであったのである。
こうした時代でも、ポーランドにジャズはジャズで存在する。なぜ、
この時代彼らはジャズを演奏することができたのだろうか。政治的な時代の変化も大きな関わりがあることも事実だろう。しかし、ふとジャズのもつ特性をふと思い出してみたりする。そう、ジャズとはあえて、言葉を必要としない音楽、もしくは、たとえそれがなくても成立する音楽、言論や表現の自由が妨げられた時代、彼らが選んだジャズはその時代と微妙といえるべきバランスをとりながらある意味共生していく。国民のフラストレーションとしてのガス抜き目的なのか、ジャズ祭は認められ、存在し、続けられ、そして、その音源はビニール材に刻まれ半世紀以上すぎた今もこうして残る。
なんの因果か、そんな時代のポーランドからはるばる極東の島国まで流れ着いたレコードたち。そうこれらは、「古くて私的なポーランド・ジャズのレコードたち」(ここでは私的に選んだ7インチEPと10インチアルバムを紹介しています)

1979年、季節は冬、東京、池袋の名画座館「文芸座」その日、二本のポーランド映画が上映された。『水の中のナイフ』(1962年)ロマン・ポランスキー監督、『夜行列車』(1959年)イェジー・カワレロウイッチ監督の二本である。
この日、私は学校をさぼってこの館内にいた。なぜ、年代を覚えているかというと、たまたま中学の担任が自分の横に偶然に座っていたのだ。一本目の『水の中のナイフ』が終わると場内に照明がつく。その時、私はその担任の存在に気づいたのだ。「オマエ、来年は卒業だろう。ここでこんなことしていいのかと」
ロマン・ポランスキー、1933年パリ生まれ、3才の時にポーランドのクラクフに引っ越し、ナチスの脅威が及ぶころ、一家はユダヤ人ゲットー地区に押し込められ、その後、両親はナチスに連行される。妊娠していた母親はまもなくアウシュヴィッツ=ビル・クナウ強制収容所に移送されそこで亡くなったという。ポランスキーの父親はナチスの採掘場で労働力として酷使され、それでも生存して終戦を迎えることとなる。ポランスキーは戦時中は、ユダヤ人狩りから逃れてヨーロッパを転々と放浪する。それはまさに、2019年に公開されたヴァーツラフ・マルホウル監督の『異端の鳥』さながらの生活であったに違いない。

『水の中のナイフ』は、ポランスキーが28才の時の作品ということになるが、ポーランド国内での評価は皆無に等しくほぼ黙殺であったと言われている。だが、この年のアカデミー賞で本作品では外国映画賞を受賞。これは、ポーランド映画の歴史にとっても初めてのことだった。ヨット遊びに興じるブルジョア夫婦のもとに謎めいた若い男が現れることで日常に変化をもたらす心理的スリラー、広大な湖を背景に漂う一隻のヨット、その狭い密室、登場人物わずか3人。国内での風当りは強く、ポランスキーはこの作品の後、『哺乳動物』(同年1962年)という10分間の短編を作ると国際的な映画作家への道へと歩むこととなる。

『水の中のナイフ』(1962年)

さて、私がその日に観たもう一本のポーランド映画が『夜行列車』である。監督は、後に『尼僧ヨアンア』で知られるイェジー・カワレロウイッチ。この作品時、37才であったことからポランスキーよりすでにベテランのキャリヤを持つ映画監督。スターリン死後の”雪解け”はまたポーランド映画界にも大きな影響を与える。国の映画製作構造が創作集団制となり、その代表格がこのカワレロウイッチ率いる”ガードル”だったといわれている。『灰とダイヤモンド』等で知られるポーランドを代表する映画監督アンジェイ・ワイダもこの集団に属したとされる。

『夜行列車』のストーリーはいたって簡素だ。ポーランドの中心部の駅から発車する夜行列車が、翌朝バルチック海岸の町に到着するまでの列車に乗り合わせた乗客、それぞれの人間模様。ある乗客が殺人の容疑で警察に追われそこで一波乱あるも乗客たちの力で鎮静化する。容疑者に疑われる若い男、手を差し伸べる魅力的な女性、だが、それもハリウッド映画的な恋愛に発展することもない。そこはしこに漂う陰鬱なムード、張り詰めた緊迫感、登場人物の表情、しぐさ、眼差しから感じる異様な気配は最後まで持続する。乗客たちは、皆、誰もが、ひそひそ声で会話するのだ。まるで、人に聞かれて困る内緒の話しをするかのように。夜行列車が運ぶのは乗り合わせた乗客人間ドラマ、そして、何より異質とも感じる陰鬱な空気感。

『夜行列車』(1959年)

ここにあるセリフと人間ドラマの独特な異様とも感じられる関係性。
この時代の東欧映画の脚本と映像の関係ついて、米出身の歴史家アン・アプルボーム「東欧の崩壊1944‐56鉄のカーテン」のなかに引用された、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダの言葉。

東欧の映画、演劇の監督たちはその後、言葉にならない「ジョーク」━観客には吞み込めるが、脚本チェックの検閲官の目には見えない暗黙の視覚的政談義━を、独自の芸術形式とも言える作品に繰り出すのだ。戦後ポーランド映画の創設者の一人、アンジェイ・ワイダはポーランドの映画製作者についてこう指摘する。「われわれはそもそもの始めから、セリフには何も口に出せないことを知っていた。・・・検閲官たちはわれわれの言葉に注意を払う。イデオロギーは言葉で表現されるから、セリフは理解できるのだ。・・・われわれは言葉で自分を表現できる可能性は皆無だと分かっていたが、映像はまったく別だ。一枚の絵は曖昧になり得る。観客はそこにメッセージを読み取るかも知れない。しかし、検閲官には行動を起こす根拠がないというわけだ」

「東欧の崩壊1944‐56鉄のカーテン」アン・アプルボーム著

さて、なぜポーランドのジャズの話しで、こうも映画の話しばかりするかというと、それにはふたつ理由がある。ひとつは、本記事で紹介しょうとしてるポーランド・ジャズのレコードが、ほぼこの時代に作られていること。スターリン死後の”雪解け”、ポーランド映画の充実期、みずみずしさと力強さを合わせ持った作品、それは、またこの頃のポーランド・ジャズにも同じことが言えると思う。どちらも、この時代から生まれた表現、この時代の空気をありたけ吸い込んだものなのだ。そして、ふたつめの理由、実は、この二本の映画は、ポーランド・ジャズと大きな関わりを持っている。そう、『水の中のナイフ』の音楽は、クシュシュトフ・コメダが担当し、『夜行列車』は、アンジェイ・トシャコフスキが担当していること。第二次大戦後、スターリン主義のソ連傘下、ポーランド・ジャスのカタコンベ時代と言われていた時代、メロマニ「Melomani」というグループに所属し秘密裏にジャズの演奏を行っていた二人。ともに、ポーランド・ジャズを語るにかかせない存在。後のポーランド・ジャズを牽引することになる二人の存在があるからである。これらからポーランド映画とポーランド・ジャズの関係性なくして語れないところでもある。

本記事を書くにあたりポーランドの政治状況を簡単に整理するならば、1953年3月ソ連最高指導者スターリン死去、この辺りからポーランド・ジャズの状況も変化の兆しが見え始める。また米国の短波ラジオ局がソ連に向けた形(西側のプロバカンダ)としてのジャズ番組も始まったのもこの年のことである。やや、話しはそれるが、長谷川四朗の『ベルリン一九六〇』ルポルタージュ・滞在記のなかに、長谷川が滞在した東ベルリンの下宿宿の老女将が、ラジオで西ベルリン=アメリカ区にあるラジオ局の番組を一人部屋で聴いているという場面がある。記述にはないがこの気骨ある女将ならこう答えるかも知れない。「電波のほうから勝手にウチのラジオに入ってくるんだと・・・」

1956年2月、ソ連首脳から発せられたスターリン批判によって大きく社会主義体制は変化していく。この年、ポーランド・ポズナンで起こった賃金引上げと厳しい労働ノルマ低減を求める労働者10万人による反ソ連デモが起こる。結果、このデモは軍に鎮圧されたが、危機感をつのらせたソ連最高権力者フルシチョフはワルシャワ入りし和解政策を提案、デモ鎮圧を出動を指揮したソ連軍官僚、将校らを解任。これにより、ワルシャワ条約を維持、外交政策上ではモスクワの支持に従うことを同意したものの、一時的な柔軟姿勢よりの政治体制と変化していく。ここで書いておきたいのが、二本のポーランド映画を学校をさぼり池袋文芸座で観た高校三年生17才の私が、もちろん、ポーランドの歴史、政治背景、状況などは知る由もなかったわけだが、何か、その強烈な匂いを嗅いだことだけは確かなことだと思っている。


この映画音楽を担当したのがアンジェイ・トシャコフスキである。1933年クラフク生まれ、コメダより二歳ほど年下。ポーランドのジャズのパイオニアであり、作曲家、ピアニスト、祖父はポーランドで最初の女子中学を設立した教育学者、父親は有名な検察官で弁護士という家系に育つ。1950年秋、地下組織ポモルスカに所属していると疑いをかけられ三ヶ月間投獄されている。冒頭に紹介した6人のミュージシャンのうち政治犯的に投獄された経験のあるのがこのトシャコフスキだ。そうしたことが関係しているのか優秀な成績であったが志望大学への入学は認められず、再申請を持つ必要となった。その間、ウッチの映画科の学生がこっそりと企画するジャズ・セッション、その中心的グループであった「メロマニ」そのメンバーとして、コメダらとともにポーランド主要都市、クラフク、ウッチ、ザコパネのナイトクラブで演奏し生計を立てる。
大学に入学が認められると、著名なポーランドの作曲家、音楽学者であり、またポーランドの前衛的なクラクフ・グループのメンバーでもあったボグスワフ・シェーファー(Bogusław Schaeffer)に師事し、作曲と音楽分析を学ぶ、1957年には、チャーリー・パーカーの即興性についての論文で修士号を取得している。その後、トシャコフスキも、コメダがそうであったように活動の場を進歩的なジャズ、映画音楽へひろげていく、本作『夜行列車』もその一本ということになる。
冒頭タイトルバック、駅校舎を交差する人々を俯瞰でとらえたショット、それにかぶさるのが、アーティ・ショー楽団、ジャズ・スタンダードで知られる「ムーン・レイ」(moonlei)。だが、トシャコフスキの編曲によって曲のその質感は様変わりする。女性ヴォーカルのスキャットは私がそれまで聴いたどんな楽曲より暗く、どんよりとした曇り空の空気、陰鬱を引きずるような影を持っていた。ワンダ・ワルスカのスキャットは煉獄の奥から聞こえる女性のすすり泣きのようにも感じる。この感覚は私にとって、ある種のトラウマに近い記憶をもたらしている。それは私にはとうてい知ることのできない苦しみの重さ、まぎれもなくブルースの持つ意味と同じものように感じる。


The Ploszyn Wroblewski Jazz Quintet -Jazz Jamboree 1960 No.3

The Ploszyn Wroblewski Jazz Quintet -Jazz Jamboree 1960 No.3 Muza155
The Ploszyn Wroblewski Jazz Quintet -Jazz Jamboree 1960 No.3 Muza155

A1 Hospital Impressions (J.Milian)
A2 In A Sentimental Mood (D.Ellington)
B1 Nana Imboro (J.Prcles)
B2 Nineteenager's Bounce (Pt. Wroblewski )

Jan.Ptaszyn Wroblewski (ts)
Janusz.Hojan (tp)
Jerzy.Milian (vib)
Wojciech.Lechowski (guit)
S.tanislaw.Zwierzchowski (b)
Julius.Grossman (drs)

1960年代のポーランド・ジャズの重要な存在と知られるヤン・プタシンヴルブレフスキ(1936年生まれ)23才の初リーダー作。プタシンヴルブレフスキは、ドイツのポーランド侵攻のちょうど3年前の1936年3月にポーランド最古の都市といわれるカリシュの弁護士家庭に生まれる。ポズナン工科大学をえて、クラクフの国立音楽学校に学び、在学中に自身のバンドを結成。最初の転機が訪れるのは1956年、クシュシュトフ・コメダのセクステットに招かれ正式にプロとしてデビュー。コメダのグループではバリトン・サックスをプレイした。本EPにも参加しているヴィブラホン奏者のイェジー・ミリアンのクインテットとコラボなどにより自身の音楽経験を磨く。その後、1958年夏。米の音楽プロデューサー、ジョージ・ウェインにより、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの「国際青年ジャズ楽団」参加資格を得る。1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバル、すなわち、映画「真夏の夜のジャズ」で知られるかのステージへ。空港に着いた彼らは、真っ先にステージを控えたジェリー・マリガン・カルテットの元へ向かったという。

ヴィブラホン奏者のイェジー・ミリアンはヤン・プタシンヴルブレフスキのひとつ年下の1935年生まれ、ドイツの作曲家、音楽学者、音楽アカデミー教授であるヴォルフラム・ハイキング(Wolfram Heicking)ボグスワフ・シェーファー(Bogusław Schaeffer)に学んだというバリバリの音楽エリートコースを歩んできた逸材。1956年、21歳にして、コメダのセクステットに参加している。ヤン・プタシンヴルブレフスキのクインテットでプレイするのが1958~1960年といわれているので、1960年、本EPの収録が二人の活動期の録音ということになる。

1960年といえば、マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」(1959年)オーネット・コールマン「ジャズ来るべきもの」(1959年)ジョン・コルトレーンがアトランティックに「ジャイアント・ステップス」(1960年リリース)を吹き込み、シーツ・オブ・サウンド切り刻まれた音のうねりを断続的響かせていた時代。それまでのジャズ古典的名盤がほぼ出尽くし、新たな表現へと向かおうとしていた時代。では、このポーランド4曲入りEPはといえば、一見それほど新しい感覚はみられない。ピアノを編成のなかに取り入れていないことに気が付く。そのピアノの代わりにギターが入るがソロはなし。少ない音数を淡々と差し込んでいく。
「Hospital Impressions」はイェジー・ミリアンによるナンバー、軽快なテーマの後、トランペットが第二のテーマといえる情緒的なメロディーを奏でる。それに、からむイェジー・ミリアンのヴィブラフォンが陰影を与えながら、ソロはふたたび快調なテンポに戻る。「In A Sentimental Mood」は言わずと知れたエリントン・ナンバー。ジャズに関する楽譜がポーランドには流通していなかった時代。ダンス音楽の楽譜はあった。だが、そこにはエリントン・ナンバーはなかった。彼らは、ラジオで覚えたそれを書き留める必要があった。そのエリントン・ナンバーを、ギター・トリオをバックにプタシンヴルブレフスキが素直ともいえる表現でオーソドックスにテーマを吹く。
「Nana Imboro」ジョゼ・プラテスという知る人ぞ知るアフロ・ブラジリアンの1958年にリリースされたアルバム「Tam…Tam...!」の収録曲。かの「マシュケナダ」の原型曲と知られているとのこと。これを彼らはワルツ的な品のあるムードに変え演奏している。ここで興味深いのが、なぜ、彼等はこのナンバーを知っていたか、取り上げたのかである。彼等はこれをラジオ放送で耳にしたのか、それとも、闇市などなんらかの方法でこのレコードを手にしたのか、いずれにしても、ポーランド・ジャズとこのアフロ・ブラジリアンの楽曲の組み合わせは実に面白い事実である。取り上げた理由ならば、私はこんなことを想像する。この時代、ハードバップにモードを取り入れ、次々と斬新な作品を発表していたアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャース、彼等もまたこうしたアフロ・キューバン・ナンバーを作品に取り入れ、ステージでの観客を沸かしていたことを。プタシンヴルブレフスキたちも、それに習い、自分たちのアフロ・キューバン・ナンバーを探していたのではないだろうか。
「Nineteenager's Bounce」は気持ちが浮き立つようなナンバーでプタシンヴルブレフスキによるもの。プタシンヴルブレフスキのモードを意識させるソロと、イェジー・ミリアンのソロがフィーチャーされる。ミリアンのそれは、ジャズ・マン、ジャズ・アーティストというより純粋たる音楽家のイメージ。粘りつくようなブルース無縁、重心のかからない軽やかなプレイは耳に心地よさをもたらす。イェジー・ミリアンがクラブ系のリスナーにも支持されているのが分かるような気がする。

この若き日のヤン・プタシンヴルブレフスキの見事なアウトサイダー的、面構えを感じてほしい。

Jan Ptaszyn Wróblewskiphoto by Ryszard Horowitz/Forum.


 Jazz Rockers -Jazz Jamboree 1961 No.3 Muza184

Jazz Rockers -Jazz Jamboree 1961 No.3 Muza184
Jazz Rockers -Jazz Jamboree 1961 No.3 Muza184

A1 Blues-Shmues
A2 Big Train
B1 Tune For J.C.
B2 Ballada Z Suity "Non Ad Libitum"

Zbignlew.Namyslowski (as)
Krzysztof.Sadowski (p)
Adam.Skorupka (b)
Andrzej.Zielinski (drs)

本EPは、ピアノ・トリオをバックにしたナミスウォフスキのワン・ホーン作品。
若い男女がダンスをするスリーブ・デザインがいかにも西欧的だ。"DANCE","MUSIC","JAZZ"などの文字も鮮やかに踊る。このジャケットは外資獲得のための輸出用のジャケットなのか。ただ、そこに"TANCZENE"の文字も、これはポーランド語で”ダンス”という意味。
B面に「DOM KSIAZKI」という貼られたシールが残っている。どうやら、「ハウス・オブ・ブックス」という意味で、1950年に設立した書籍の小売、卸売り販売をする書店らしい。つまりこの時代、ポーランドではこうしたレコードは書店でも売られていたということになる。

ズビクニェフ・ナミスウォフスキは1939年ワルシャワ近郊生まれ、対戦中に両親を亡くしている。この人もポーランド・ジャズのキーパーソン。この人の伝記というものがあったのならそれは百科事典並の厚さになるだろうと言われているほどの人物。ワルシャワ近郊で生まれ、クラクフで音楽を学び、チェロを弾く。まもなくしてデキシーランド・ジャズ・バンドに加入しトロンボーンに転向。どんな楽器もマスターできる演奏者として注目を浴びる。そのバンドによる1956年のソポト・ジャズフェステヴァルが彼のもっとも古い録音とされる。ジョン・コルトレーン「レディ・バード」をレパートリーにもつ世界で唯一のデキシーランド・バンド。やがて、コメダからアルト・サックスを借りると、デキシーランドからハードバップへの道へと歩み出していく。

「Blues-Shmues」は黒い粘りつくようなブルース。これがポーランドのジャズであることを忘れる。何も知らないで聴いたら黒人のミュージシャンによるプレイだと思うはず。オルガン・コンボを従えたサックス奏者のようなローカルなバタ臭さえ漂う。ナミスウォフスキは黒人ミュージシャンのもつその音の体臭さえも学んだのか。しかし、日本の我がジャズ仲間ならば、「だったらオレは黒人のジャズのレコードを聴くよ」となるだろう。だが、1961年のポーランドならば、それほど西側のレコードも流通していない状況、ましては、米国人の生演奏などほとんど聴けない環境において、このナミスウォフスキのブルースはジャズに憧れる、必要とする若者にとって仕事終わりの一杯のズブロッカのように身体にしみ込んだことだろう。

だが、ソウル・ジャズ路線はここまで。
「Big Train」はピアノのクシュシュトフ・サドウスキーのナンバー、当時の米国のジャズとほぼ時差の感じられない曲調。ナミスウォフスキのプレイは米ジャズの様々なサキソフォン・プレイヤーのプレイを研究、消化しきった後の充実の内容。しかし、エモーショナルな気を内に秘めた、突き放したかのようなクール感が加わる。この時代、ポーランドのジャズ・ミュージシャンたちが、強烈な個性はともかく米のジャズをなぞる以上に高度な音楽レベルにあったことをうかがわせる。「Tune For J.C.」同じくクシュシュトフ・サドウスキーのナンバー、ジョン・コルトレーンに捧げられたもの。ナミスウォフスキのソロに新しい感覚が入ってくる。
「 Ballada Z Suity "Non Ad Libitum"」はこのEPでいちばんの聴きもの。1957年のソポト・ジャズ祭でモダン・ジャズ・セクステットのジャズ作曲家、編曲家、ピアノとしてデビューしたアンジェイ・ムンドコフスキ(Andrzej Mundkonski)のナンバー。叙情的な旋律、静けさ漂うナミスウォフスキのムードが実に素晴らしい。ジョン・コルトレーン「ラッシュ・ライフ」に似た雰囲気を持つ。サドウスキーの「魅惑のリズム」(Fascinating Rhythm)を引用したしっとりと聞かせるピアノ・ソロがある。

Zbigniew Namisłowski na Jazz Jamboree, 1966, fot. Tadeusz Wacky/Forum.


Trio Komedy -Jazz Jamboree 1961 No.4 Muza187

Trio Komedy -Jazz Jamboree 1961 No.4 Muza187
Trio Komedy -Jazz Jamboree 1961 No.4 Muza187

A1 Typish Jazz
A2 Crazy Girl
B1 Cherry
B2 Ballad For Bernt

Bernt.Rosengren (ts)
Krzysztof.Komeda (p)
Roman.Dylag (b)
Leszek.Dudziak (drs)

これから、コメダについて語るわけだが、私は、この人物について大した情報を持ち合わせていない。ハッキリ言えば、知れば、知るほど、このコメダという人物が遠のいていくような気がする。コメダこと、クシュシュト・トルチンスキ、1931年ポズナン出身、2才でピアノを習い始める。赤毛でメガネをかけた口数の少ない寡黙な青年、職業・耳鼻咽喉科師。ラジオが自分にとっての音楽の先生だったと語る。ジャズが社会主義リアリズムの一般的な原則に適応しない音楽として禁じられたカタコンベ時代、秘密裏に開催されたジャム・セッションに参加。共産党員に目をつけられることを恐れ、ステージネームとして「Komeda」の名を使用。その名前は知る人ぞ知る存在として、にわかに知られてゆく。
戦後最初の先駆的なジャズバンド、クラクフ、ウッチなどで活動するグループ「メロマニ」でコラボレーションするなど、当初は、伝統的なニューオリンズ・スタイルのジャズを演奏していたが、本心は現代の音楽としてのモダン・ジャズに惹かれていた。その真価は、1956年のソポト・ジャズフェスティバルで発揮される。先に書いたヤン・プタシンヴルブレフスキのバス・クラリネット、ヴィブラホンのイェジー・ミリアンが加わったセクステット。その革新的なパフォーマンス、その演奏は、雪解けの時代を象徴する文化イベントとなり、それまで非難されていた音楽、ジャズが文化の中心となった瞬間でもあった。ポーランド中、いや東欧中の全新聞、全雑誌はその日の出来事を一斉に伝えた。赤毛でメガネをかけた男はたった一日で、その日を境に、ポーランド文化の歴史、その時代の顔になる。

アンジェイ・ワイダ監督、1962年の映画『夜の終わりに』で、昼間はスポーツ医師と働き、夜はナイトクラブでジャズのドラマーとして生活する青年が登場するが、そのモデルはコメダだと言われている。脚本はこれまたクラクフ・ウッチの映画科出身の映画監督として、同時期に「出発」(1967年)「手を挙げろ!」(1967年)などを手掛けたイェジー・スコリモフスキ。ポーランドの俳優タデウシュ・ウォムニッキが演じるバジルにコメダの姿、スタイル、プロフィールをスコモフスキは投影したと。

しかし、ここまで書いてみても、私には、そのコメダという人物がまるで見えてこない。テキストが足らない、知識が足らない、もちろんそれも大いに関係しているだろう。だが、それより何より、時代か、歴史か、寡黙だったという性格ゆえか、私にはこの音楽家が今なお謎多きミステリアスな人物のように思えてならない。
ジャズは、1956年5月の「雪解け」にも関わらず、国家当局から大きな不信感を持ってして扱われていた。そのジャズで国民の関心を惹く男、感情を煽る男、ジャズを演奏する注意人物=コメダ。そして、イェジー・スコリモフスキによって描かれるバジル=コメダ、もはや、この時点でこのコメダという人物はポーランドという国で半ば伝説化していたのではないだろうか。

映画美術史家で「コメダ」の著者でもあるマレク・ヘンドリコフスキ教授はRAPのインタビューで、ポランスキーがコメダにはじめて会った時の印象をこう話している。
「ロマン・ポランスキーはコメダを赤毛で眼鏡をかけた非常に恥ずかしがり屋の男だったと回想している。彼のことをよく知るようになると、彼の控え目さは、病的な恥ずかしがり屋の表れであり、優しさと並外れた知性を隠す鎧であることに気づきました」
コメダは、ポランスキーをはじめ、音楽仲間以外、いったいどれだけの人間に、その鎧の下の自分を見せたのだろうか。

そのポランスキーとコメダの最初のコレボレーションが『タンスと二人の男』(15分短編)1958年。使われた音源は、1957年のソポト・ジャズフェスティバルでのコメダ・グループの演奏「子守唄」(Kolysaka)海から現れいでるタンス、それを担ぐ男二人。彼等はやがて街に向かうが、タンスを持ったままの二人に街の人々の反応は冷たい。路面電車には乗れず、レストランは入れず、ホテルには宿泊を拒否される。美しい少女とのすれ違いもあるが、ほどなくして街のチンピラにからまれ暴行受ける。(チンピラの一人をポランスキーが演じている。ハリウッド映画「チャイナタウン」のギャングといい、この人はこの手の役を演じるのがよっぽど好きだ)行く場所のないタンスと彼等は二人は、ふたたびに海に戻っていくしかない。カフカ的、不条理劇をみているような内容、だがそのメッセージ性はともかく、筋運びに初期サイレント映画のような誰にもでも伝わるの明快さがあり、どうなってしまうのだろうかと物語を追ってしまうところがある。さすが、後の名監督のデビユー作である。としても、非コメディ。
その詩的で寂しい物語に、コメダのナンバー「子守唄」(Kolysaka)はどこか鄙びた空気と哀愁をそえる。

続く『水の中のナイフ』(1962年)ポランスキーの出世作というばかりではなく、コメダの出世作ともいえるだろう。これは、ポーランド国内の知名度はもとより、国外、西側へと二人の知名度をひろげていく。
コメダ、今なお謎多きミステリアスな人物のように思えてならない。だが、ここにこうして音源は残る。何十年過ぎようと。何百年過ぎようと。いや、永遠に。これが、レコード・音源の凄いところでもある。
1961年となっているが、リリースは1962年、4曲入りEP。テナー・サックスのベルント・ローゼングレンのクレジットのみが太字になっていること。ここで、スウェーデンが生んだ当時、新鋭気鋭のミュージシャンであるこの人物についてふれなければならない。
ベルント・ローゼングレン(Bernt Rosengren)1937年生まれ。19歳でスウェーデンの名門、ジャズクラブ57のメンバーとしてプロの道を飾る。そのスーパー才能はすぐ様開花し、1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの「国際青年ジャズ楽団」にも選出される。同年、20歳で1940年代からストックホルムで活躍していたジャズ・サックス奏者、カール・ヘンリック・ノリンの代役を務めたことで、スウェーデン・ジャズ界の若き逸材としての知名度を得る。

THE NEW BEAT GENERATION-BERNT ROSENGREN SXP2517


ここで、思い出すのが、仏のテナーサックス奏者・バルネ・ウィランの存在であろう。わずか、19歳でジョン・ルイス&サッシャ・ディステルの「アフタヌーン・イン・パリ」の録音に参加し、20歳して自身のリーダーアルバムをリリースした逸材。彼もまたローゼングレンと同じ1937年生まれ。彼らは、二人はライバルとしてお互いを意識しあっていたという。思えば1937年はヨーロッパジャズにとって優れた逸材の豊作の時期でもあったということになる。
そんなベルント・ローゼングレンは、知名度でいえば、ポーランドのどんなジャズ・ミュージシャンよりも先に知られていたということになる。ここの太字の意味は、「このレコードにはスウェーデン・ジャズの新鋭、かのベルント・ローゼングレンが参加してますよ」という意味になるのではないだろうか。
コメダはポーランド公演で訪れたローゼングレンのプレイを聴いて、本EPへの参加を熱望したと言われている。ここでは、それまでのロリンズ系のしなやかな音とは逸脱した、ざらついたエッジの効いたトーンで存在感をしめすことになる。
「Typish Jazz」疾走するリズムセクションにのって、のっけからそのローゼングレンのきしんだテナーに圧倒される。ジャズにおいて、モーダルは時に知らない場所、景色を連れてやってくる。音の響きに異質なものさえ感じるのは私だけだろうか。ハードバップのスタイルをとってはいるが、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャースのそれとは質感もってしてまったく別なものに感じる。「Crazy Girl」不安な様子をもたらす音の波紋が続き、やがて、霧もやのなかで白いベールをまとった少女が舞い踊るような旋律に変わっていく。ローゼングレンは時に音をきしませながら耽美な世界を表現する。美しい表現ではあるが、スィートな感覚は皆無、すべては靄かかっている。曲の終わり、ふたたび冒頭の音の波紋を繰り返しミステリアスな余韻を残して終わる。「Cherry」はふたたび疾走感溢れるナンバー。4000番台のブルーノート・レーベルにあってもおかしくない曲調、カッコいい、だが、何かが違う。その漂う何かこそが、サムシングが、コメダ・ジャズの肝であることに違いない。「Ballad For Bernt」美しいバラードであるが、白日夢を見ているような雰囲気がある。コメダのうつろうような表現にため息がもれる。途中ハットするようして、ローゼングレンのテナーが入る、この官能的な音の響きは映画音楽として艶っぽいシーンに使われるそれでもあるが、ここでのそれは静観、ムード、倦怠感が漂う。

同時代、仏のヌーベルバーグ派と言われた若き映画監督たちは、「死刑台のエレベータ―」「大運河」「危険な関係」等々。米の本場ジャズ・ミュージシャンを招いて自身らの映画音楽として使った。東欧では、当然のことながら、自国もしくは東欧圏ミュージシャンを使う必要があったように思う。ここに、西側スウェーデンのミュージシャン、ベルント・ローゼングレンの名前があることはやや意外なような気がする。(コメダは、西がバルネ・ウィランにセロニアス・モンクを組ませるならば、こっちは、オイラ(コメダ)が、ベルント・ローゼングレンと組もうなどと思ったのではないだろうか)

『水の中のナイフ』サスペンス映画をまとった作品であって、本来そこに込められたメッセージは多分に存在するのかも知れないが、(脚本はイェジー・スコリモフスキ)アンジェイ・ワイダや、イェジー・スコリモフスキ自身の作品などと比較するとメッセージ性はやや希薄に感じる。しかるに、スタイリッシュな映像に込められたオリジナリティ・個性はもはや世界を向いている。それは、コメダのこの音楽にも同様のことがいえるだろう。映画音楽として西欧レベルと比較してもなんら遜色のない完成度、そして可能性をひめている。これは、東欧/西欧、ジャズ/映画音楽を超越して、ただただ表現力豊かな魅力的な音楽として聞こえる。この作品から二人への世界の扉は開け放たれたのだ。
その後、二人のコンビネーションでの作品は、「袋小路」(英・1965年)「吸血鬼」(英・1967年)「ローズマリーの赤ちゃん」(米・1968年)1969年にアメリカ・ロスアンゼルスでの不慮の事故、昏睡状態に陥りポーランドに移送、亡くなるまでその関係は続く。


The Jazz Outsiders -Windmill’sCountry  Muza197(1962)

The Jazz Outsiders -Windmill’sCountry  Muza197
The Jazz Outsiders -Windmill’sCountry  Muza197

A1 Windmill's Country
A2 Outsideria
B1 Nineteenager's Waltz
B2 Cannonbird

Jan.Ptaszyn Wroblewski (ts)
Stanimir.Stanczew (tp)
Krzysztof.Sadowski (p)
Juliusz.Sandecki(b)
Adam.Jedrzejowski(drs)

私がはじめて買ったポーランド・ジャズのレコード。わずか千円ほどだったと記憶する。ここから私のポーランド・ジャズへの思いの飛翔がはじまったわけだ。胸のすくようなハードバップ。
ヤン・プタシンヴルブレフスキをリーダーとする「The Jazz Outsiders」名義としての一枚。雪解け後とはいえ、ここでの”社会の枠にとらわれない者、部外者、外部者”を意味する”アウトサイダー”という言葉がグループ名に使われていることに反応する。当時ポーランドにおいて、西側の若者のそれを象徴するような言葉としてのそもそもアウトサイダーというものが存在したのか。米出身の歴史家アン・アプルボームは「東欧の崩壊1944‐56鉄のカーテン」のなかでこう述べている。

スターリン主義時代、若者たちは利用できる手段を駆使して声を潜めた抗議形態に訴えた。西側の十代の青年たちが長髪やブルージーンズががとてつもない効果を発揮する不満表明の手段になることに気付きはじめたように、スターリン体制下に生きる東欧の十代は細目のズボン、肩パッド、赤のソックス、さらにジャズが抗議の形になることを発見する。こうした「若者の反抗」という初期のサブカルチャーはさまざまな国で異なる名を付けて呼ばれた。ポーランドでは「ビキニャージェ」おそらく、米国が初の核実験を行っ太平洋の環礁名から来ているようだ。(中略)男子は細見のつなぎズボンが好みだ。(ワルシャワには普通のズボンからこれを作るのが専門の仕立屋があった)(中略)実のところ、西側音楽と西側流の若者ファッションに絡む問題が解消されることは決してなかった。それどころか、この二つは「ロック・アラウンド・クロック」の初の衝撃的な録音が1956年、東側に伝わり、ロックンロールの到来を告げると、ますます魅力を増した。ところが、その頃までに共産党体制はポップ・ミュージックとの闘いを止める。ジャズはスターリンの死後、一部地域で合法化されていく。

「東欧の崩壊1944‐56鉄のカーテン」アン・アプルボーム著

本EPは、1956年5月の「雪解け」から6年の歳月をえている。ここで書かれているようにもはやジャズにある程度、自由が与えてられていたということなる。だが、その自由が与えられるまでは、共産党体制と若者・ジャズの関係にはこのような歴史があったということになる。結局、若者の衝動、体制にあらがう意識、ジャズやロックン・ロールと結びつくものは、いかなる政治体制をもってしても抑えることはできなかったともいえる。この録音が行われた当時、ヤン・プタシンヴルブレフスキ26才、彼もまた十代の頃は、ここで書かれているような「ビキニャージェ」と言われるような一人だったかも知れない。それを考えると、この「The Jazz Outsiders」というグループ名もなるほどと頷ける。

「Windmill's Country」テーマ勢いのある出だしから、哀愁をにじませる旋律に変わる瞬間、国が変われど、これぞハードバップと思わずには入れない。ジャック・ウイルソンの「イースタリー・ウインズ」なども彷彿させる音。だがそこに黒さはまったくない。疾走感溢れる「Cannonbird」は、現代のフロアも沸かせてもおかしくない内容。さらには、ロルフ・エリクソン、ジャック・シェルドンなど白人トランぺッターを要したカーティス・カウンス、ハロルド・ランド等、西海岸ハードバップとも感覚が近い。しかしながら、そこにカルフォルニアの陽光はわずかばかりにもさす気配は感じられない。「Nineteenager's Waltz」シュシュトフ・サドウスキーのピアノは、キャノンボール・アダレイでプレイするオーストリア出身、ジョー・ザビヌルのように白人的にファンキーである。静けさに満ちた「Outsideria」どんよりとした薄曇りのワルシャワの路地、仲間との世間話しをしているかのような哀感を感じられるナンバー。

西側と同じく、衣服は音楽と結びついている。ビキニャージェは、共産主義青年活動家がジャズ・レコードを叩き割って回ったにもかかわらず、あるいは、そのおかげで、ジャズ・ファンとして出発した。ひとたびジャズが御法度になると、その音楽は政治家する。ラジオに流れるジャズに耳を傾けるだけで政治活動となるのだ。(中略)ルクセンブルク放送は異様なほど人気を博した。その後、米国の声(Voice of America)放送のジャズ番組がそうなったように。こうしたジャズの聴き方は共産体制が四十年後に崩壊するまで、一貫して異論活動であり続けた。

「東欧の崩壊1944‐56鉄のカーテン」アン・アプルボーム著

本EPをまとめるとするならば、独特のくすんだ影を持つ洗練された東欧的ハードバップ。スターリン主義時代、規制があったにせよ、お手本となるべくその音は、届くべき人々の耳へ届いていた。ジャズとして米のオリジナリティーにはまだ及ばないかも知れないが、音のセンスに限っては欧米となんら時差のないことが何よりの証拠だろう。


 Jazz aus Polen 61 (Jazz Jamboree 61 Warschau)

 Jazz aus Polen 61 (Jazz Jamboree 61 Warschau)
 Jazz aus Polen 61 (Jazz Jamboree 61 Warschau)

A1 Utwor na Temat Piesni-Zespot Flamingo J.Nalaskowski
A2 THIS OR THIS- Ttio Komedy
A3 A Tisket A Tasket-J.Matuszkiewicza J.Matuszkiewicz
B1 Nineteenager's Riff -Jazz Outsiders。
B2 Cansas City-New Orleans Stompers H.Majewski
B3 Jazz 61-Zespot S "Drazka"Kalwinskiego S.Kalwinski

ポーランドMuza盤「Jazz Jamboree 61」と同内容の東ドイツ10インチ盤。ここから今までの絡みをうけた2グループ、コメダ・トリオの演奏と、前記したヤン・プタシンヴルブレフスキによる「The Jazz Outsiders」を語りたい。A2「THIS OR THIS」コメダ・トリオの有機的なテンポとフィーリングは欧米のそれと似て非なるサムシングを感じずにはいられない。やはり、ここにも心象的風景がそっと漂う。ベースのA.スコルピカのテクニックも素晴らしい。そして、「The Jazz Outsiders」メンバーも前記EPと同じ。B1「Nineteenager's Riff」これが、カッコいい。ヤバい! スラブ系の旋律テーマ曲、テナー・サックスとトランペットのユニゾン部分で一気に上り詰めるスウィング感。コンボの統一性とソリストの並々ならぬ実力。特にプタシンヴルブレフスキとトランペットのS.スタンチェフの自らの様式美に対する自信が漂う。もはや、ハードバップでもアート・ブレイキーの影響どうのということすら忘れてしまう。この時代、世界でここにしかないハードバップ。


The Jazz Rockers -Holiday Moods  Muza 229(1962)

The Jazz Rockers -Holiday Moods  Muza 229(1962)
The Jazz Rockers -Holiday Moods  Muza 229(1962)
The Jazz Rockers -Holiday Moods  Muza 229(1962)

A1 Signature Tune
A2 Holiday Ballad
A3 Neskim Blues
B1 Satna Claus
B2 Faun's Dance

Zbignlew.Namyslowski (as)
Michal.Urbaniak(ts)
Krzysztof.Sadowski (p)
Adam.Skorupka (b)
Andrzej.Zielinski (drs)

なぜ、”ジャズで、ロッカーズ”なのか。このグループ名に東欧一帯を襲ったロックン・ロールの到来、「ロック・アラウンド・クロック」の波、その衝撃を思い図ることとなる。衣類でも音楽でも、ポーランドの若者の反逆者には、米国のロッカーズや英国のテディ・ボーイズに憧れるものがおおかった。彼らはそのファッションアイテムを闇市場で手にいれていたという。そんな彼らに対し青年党員たちは時に警察と手を組み、街頭で彼ら「ビキニャージェ」狩りを行った。彼らは殴りつけられ、髪の毛を切られたり、ネクタイを切り裂かれたりした。公式のダンス・パーティが台無しにされたこともあった。なぜなら、「ビキニャージェ」たちがこの時代の”ジルバ”を踊り出したからである。
さて、本EPナミスウォフスキのグループであるところの「ジャズ・ロッカーズ」そこにどんな意味と比喩が存在するかは分からないが、そんな自由を求める若き反逆分子たちに、自分たちと同じ似た感情を抱いていてもおかしくはなかっただろう。ジャズが、そのロックに変わったとしても。
「ホリディ・ムード」「サンタ・クロース」などのタイトルから年末のパーティ仕様を想定して作られたものであろうか。テナー・サックスで、後に
ジャズとヒップホップを融合させたバンドUrbaierで知られるマイケル・ウルバニアク(M.Urbaniak)が参加している。サックスの他にヴァイオリンもこなす才人であるが、ここではテナー・サックス一本に徹している。ここからパーティが始まりますという感じで「Signature Tune」の短いテーマの後、「Holiday Ballad」ナミスウォフスキのアルト・サックスによるバラード、しっとりした情感ながらもその音質は冬のポーランドの空気のように乾いている。「Neskim Blues」はこのEPいちばんの聴きもの。ここでのナミスウォフスキのソロはややアブストラクト、エリック・ドルフィーのアルトのようなニュアンスを感じさせる。「 Satna Claus 」はノベルティ曲にありそうなロックン・ロールナンバー。テーマ、ソロの間に8ビートが入ってくるが、ジャズ・ロック未満のパーティ用のサービス曲。「Faun's Dance」は、ピアノのクシュシュトフ・サドウスキーによるナンバー、魅力的なテーマを持つ、ナミスウォフスキが流麗なソロに自信を感じる。本EPは、年末企画「ホリディ・ムード」ということで、気負わず肩の力の抜けたナミスウォフスキのプレイが楽しめる。
このシングルを当時、ポーランドの「ビキニャージェ」と呼ばれる世代の若者たちがダンス・パーティに使用したことは想像に難しくない。そして、こんな思惑がふと頭をよぎる、すなわち、当局のロックン・ロールはダメだけど、まあジャズならいいよと。ロックン・ロールナンバーはそのギリギリの譲歩ではなかったかと。


Bossa Nova Rhyhm -Golden Bossa Nova  Muza SP-80(1963)

Bossa Nova Rhyhm -Golden Bossa Nova  Muza SP-80(1963)
Bossa Nova Rhyhm -Golden Bossa Nova  Muza SP-80(1963)

A1 Bossa Nova Rhythm
B1 Golden Bossa Nova

Zbignlew.Namyslowski (as)
Andrzej.Mundkowski (p)
Andrzej.Mundkowski(Ense)

ズビクニェフ・ナミスウォフスキのボサノヴァ盤、ボサノヴァ・ムーブメントはここポーランドもまた例外ではなかった。バックに1924年生まれのナミスウォフスキなどの先輩格にあたるジャズ・ピアニストで作曲家のアンジェイ・ムンドコフスキ・アンサンブルがあたる。オリジナルのボサノヴァ・ナンバーが権利上使えなかったのか、曲も自前、そのアンジェイ・ムンドコフスキによるもの。ボサノヴァ風イージー・リスリング、ナミスウォフスキのソロもどこかノリが悪い。これは、果たしてナミスウォフスキが自ら望んだセッションなのだろうか。(笑)
とはいえ、スタン・ゲッツの「ジャズ・サンバ」が1962年、この盤はその翌年の1963年、「ジャズ・サンバ」によってボサノヴァは世界を席巻したわけだが、ここポーランドもそれは例外ではなかったことを伺わせる。主義の壁をも超えるラジオ電波は米と変わぬタイミングで、ゲッツの吹く「デザフィード」(Desafinado)の旋律、そのそよ風は、東欧の国々にも運ばれた、そのまぎれもない事実である。


Wand Warska Andrzej Kurylewioza-Somnambulicy Muza L-0348(1963)

Wand Warska Andrzej Kurylewioza-Somnambulicy Muza L-0348
Wand Warska Andrzej Kurylewioza-Somnambulicy Muza L-0348

A1 Moonray
A2 Somnambulicy
A3 Stompin' At The Savoy
A4 Lover Man
B1 You'd Be So Nice To Come Home To
B2 But Not For Me
B3 Ballada O Straconej Gaży
B4 Tubby

Wand.Warska (vo) (A1, A2, A3, A4)
Andrzej.Kurylewicz(p) (A1, A2, A3, A4)
Wojciech.Karolak(p) (B1, B2, B3, B4)
Jan.Byrczek(b) ( A1, A2, A3, A4, B1, B2, B3, B4)
Andrzej.Dabrowski (drs)( A1, A2, A3, A4, B1, B2, B3, B4)

このレコードに針をおろしてみて、私は驚いた。その一曲目、なぜなら、ここから「ムーン・レイ」(moonlei)その女性ヴォーカルのスキャットが流れてきたからだ。そう、高校時代、学校をさぼって観た映画『夜行列車』の冒頭のテーマ曲が。このヴァージョンは、映画に使われたものとは異なるものであるが、そのトラウマに近い記憶を呼びさますには充分であった・・・。ここで、私は自分とポーランドジャズの関係をただならぬ関係を知るのである。
本10インチは、A面に、ワンダ・ワルスカのヴォーカルにアンジェイ・クリレヴィッチのピアノ・トリオが伴奏についたもの。B面にアンジェイ・クリレヴィッチのトランペット、ピアノ・トリオが伴奏に入ったもので構成される内容。つまり、アンジェイ・クリレヴィッチはピアノをプレイし、トランペットもこなす二刀流盤ということになる。

アンジェイ・クリレヴィッチ、ポーランドの作曲家、ピアニスト、トロンボーン、トランペット奏者、ウクライナのリヴィウの音楽学校で6才からピアノを習う。その後、クラクフの国立高等音楽学校に進むも、1954年、ジャズを演奏したことにより大学を追放される。同1954年、クラクフのポーランド放送局にて働きはじめ、後にポーランド・ラジオ・オルガン六重奏団を設立。1957年西ドイツで開かれた「ジャズピアニスト・フェスティバル」で、最優秀賞を受賞、それは鉄のカーテンの向かうから生まれたポーランド人音楽家として最初の受賞となった。1958年ワンダ・ワルスカと結婚、ソロピアノのための曲「ソムナンブリ」と映画「ラスト・ショット」の音楽を担当する。
「夜行列車」の公開から一年、ここでの「Moonray」は、いまだまだ異質な感覚をひめている。スタンダードを中心としたA面の他3曲はアフターアワーズを演出するようなリラックスした味わいで作られている。ワンダ・ワルスカのヴォーカルは歌詞をあまり用いずにほぼスキャットでしめられているのが特徴。
B面は、アンジェイ・クリレヴィッチがトランペットをプレイする「You'd Be So Nice To Come Home To」でスタートする。クリフォード・ブラウンというより、ウエストコースト、チェットの青春の退廃、影、鬱屈が漂わない、あるのは、ポーランド人青年、律儀なチェット・ベイカー。B3は、「Ballada O Straconej Gaży」アンジェイ・クリレヴィッチの代わりにピアノに座ったウォイチェック・カロラックによるナンバー、カロラックはピアニスト、作曲家でもありこのナンバーはほぼトリオ演奏され、(最後のほうで少しだけ、クリレヴィッチがトランペットが出てくる)耽美的な美しいナンバー。こういう秀逸な曲が隠れたようにひっそりと収録されているところがポーランドジャズの深いところである。

さて、ここまで7インチ・シングルと10ンチ・アルバムを紹介してきたわけだが、これらアーティストはその後、それぞれの代表作を残している。ヤン・プタシンヴルブレフスキには「polish Jazz Quartet」(1964年)があり、ズビクニェフ・ナミスウォフスキには「Lola」(1964年)「Quatet」(1966年)があり、クシュショトフ・コメダには「Astigmatic」のほか、四枚組コメダの様々な音楽活動を知るのにうってつけともいえる「Muzyka Krzysztota Komedy Vol.1」があり、アンジェイ・トシャコフスキには、テッド・カーソンをフューチャリングしたセクステットによる「Seant」があるというように。ここではポーランドジャズのとば口としてMuzaからリリースされた初期シングル盤、10インチ盤を中心に紹介した。

古くは西アフリカのトーキング・ドラム、さらには黒人霊歌を歌うことしかゆるされていなかった黒人たちが、南北戦争後、奴隷制度廃止とともに、道端に捨て置かれたような楽器を手にすることによって、自身の音楽を表現することが可能となった時、やはり、そこには言葉を必要としなかったように、そして、サラ・ヴォーンが「枯葉」を歌詞を一切使わずにスキャットのみで歌い切るように。
弁護士の父を持つそれなりの家柄に育ちながら、自らをアウトサイダーと名乗りジャズに身を焼き尽くしていくプタシンヴルブレフスキ、黒人のプレイと聴き間違えるようなナミスウォフスキの黒いブルース、赤毛で眼鏡をかけたシャイな男、その鎧の下からポーランドジャズを世界に知らしめた人物としてのコメダ、そして、そう、歌詞をもたないワンダ・ワルスカの「ムーン・レイ」(moonlei)その陰鬱を影を引きずるようなスキャット・・・。

彼らもまた、それぞれの楽器により、思い、感情、自分自身をそこに投影したことは間違いのないことだろう。


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