家長むぎの文章が好きだよって話

今回は私のノートの中でも特に自己完結した話

序文

   私はにじさんじが好きだ。箱推しと自信を持って言えるほどではないが、広く薄く色んなライバーの個性を楽しんでいる。特に好きなのが2期生。にじさんじの中でも特に個性の塊である彼らはいつも私を楽しませてくれる。
   私は月ノ美兎でにじさんじを知った。そして親子ネタから剣持刀也を知り、剣持が斬るで自分と近い価値観に興味を持って追い始めた。彼を認知した最初期から現在まで、唯一推しであると自信を持って言える存在だ。
    家長むぎ(以下彼女と表記)を知ったきっかけはハピトリ。当時は萌え声を敬遠していたのもあり、コラボ以外で彼女を見ることは無かった。だが彼女のノートを知って見方が変わった。

本文

   彼女と私は、まるで異なった価値観を持っていると思う。なんなら対極に近いと思えるほどに。私は太宰は嫌いだし、他人の深い思考をぶつけられると辟易としてしまう質だ。芸術に対する興味も無ければ日常の出来事に対して繊細な感傷を抱くことも無い。
   そもそも私は専攻が医学だし、文系寄りの彼女とは思考の根本がまるで違うという自覚はある。本が好き、という点では共通していても私の好きな分野はファンタジー、ミステリー、宇宙学素粒子物理学だ。哲学書など何冊積読行きになっているか。読書傾向で言えば多分真逆を行っている。
   私は自分の理解できないものとは距離を置く質だ。特に意識はしてこなかったが、友人も価値観が近しい人間が多い気がする。まあそれほど多くもないからサンプル数が十分とは言えないが。
   そんな私が彼女を見るようになったのは彼女の文章が好きだからだ。テーマの選択が、言葉選びが、文章の組み立てが、彼女の読んできた本達を、彼女の人生を写していると感じる。それは彼女の中で深い思考を経て出てくる言葉だからだろう。彼女の配信は、萌え声と言われる可愛らしい声であるが、時折出てくる単語の選択などにノートの文章の片鱗を感じる。ふと溢れるその片鱗は、彼女の中にその(読書や思考の)経験が確かに根付いていると感じさせる。そこが良い。ただの萌え声ならごまんと溢れるこの時代、家長むぎを選ぶに足る良さだ。
   私は自分の人生が文章に写されているとは思わない。この文章を書くのにもある程度の時間はかけているつもりだ。少なくとも刹那的に書き捨てたものではない。だがこの行為は推敲だ。自分の文章をあとから読んでみても彼女の文章のように形あるモノと感じたことはない。長い時間思考の底に揺蕩ってやっと掴んだ泥のような、手で掬えそうなほど濃いモノではない。
   何が違うのか、自分でも分からない。自分の文章が嫌いな訳でもないし、それでいい。自分を完全に理解するなど不可能だ。だが自分と異なる価値観を持つ家長むぎが、そしてそれを活字を読むという行為で実感出来る家長むぎの文章が好きだ。
   ここまで書いて我ながら珍しいこともあるものだ、と思った。自分の理解できないモノを遠ざける質の私が、自分と異なっていると自覚しながらそれを楽しんでいる。それをさせたのは家長むぎの書く文章の魅力なのだろう。

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