見出し画像

春が来てわたしは

ライターの火を点ける音で目を覚ました。

そろりと目を開けると、ハンドルネームしか知らない男が窓際で煙を吐いているのが見えた。わたしに気付いたはずなのに、無視してスマホを操作している。その素っ気なさが、昨晩の彼の熱心な表情とは別人にすら見えて笑いそうになる。

新宿歌舞伎町のラブホテル、その中の一室にわたし達はいた。自分の弱さや情けなさを甘く包んでくれた部屋の装飾も、朝になると自分がここにいることすら否定しているような気分にさせてくる。

2本目に火つけた彼に目をやる。顔立ちはそこそこ整っていて、少し長い金髪とピアスが目立つ。わたしが起き上がると、一瞥だけしてすぐスマホに視線を戻す。空調の音だけが部屋の中で響く。

ツイッターで会う男のほとんどが、こんな調子だった。彼らの一番の目的は体を重ねてその場凌ぎの承認欲求を満たすことで、それは結局わたしも同じなのだけど、朝になって味わうこの言いようのない孤独感だけはどうしても拭いきれない。

彼らに会うと大抵まずはかなり酔うまで飲まされる。お酒は好きだし彼らが払ってくれるから良いのだけど、毎回毎回またか、と思わされるし、他の男と行ったバーに連れて行かれたりし始めて、最近は少し飽きてきた。

気づくとわたしはホテルに連れ込まれていて、落ち着く間も無く彼らはわたしに手を伸ばしてくる。わたしを求めるあまり必死になっている彼らの表情は、何度見ても興奮する。わたしも大概だなあと思うけれど、どうしてもやめられない。一種の麻薬みたいなものだと思う。

わたしは少しだけ抵抗するそぶりを見せるのだけど、すると男は余計に興奮して、力任せに押し倒してくる。半ば強引に唇を奪われ、舌を甘噛みされて蕩けた声をあげてしまうわたしも、もしかしたらその空気に酔っているのかもしれない。

その後の記憶はいつも、あまり残らない。酔っているからというのもあるけれど、わたしにとっては気持ち良いかどうかよりも、どれだけ彼らがわたしを求めているのかの方が大事だった。

そんなどうでも良いことを考えたあと、うとうとしながらスマホを手に取り、ツイッターを開くと「ぐなろあ」という文字列が目に飛び込んできたので、思わず「わ」と声をあげてしまう。ゆー君、とわたしが呼んでいた、彼だ。彼と会わなくなってからも、わたしは別でアカウントを作ってこそこそとツイートを覗いていた。

そこには、彼がSNS発祥で新進気鋭の漫画家としてインタビューを受けている記事が掲載されていた。あれから2年も経っていないのに、この差はひどいよ、と軽口を叩きたくなる。この差はひどいよ、ゆー君。

「その漫画家」ハンドルネームしか知らない男がスマホを覗き込んでくる。「この前Twitterで見たけどあんま好きじゃないわ。文字が多すぎだし、絵が下手すぎて読めないし。漫画描けないなら小説書いてろよって思った」
「ね」わたしは少し笑って、思ってもいない同意を返す。

ホテルを出ると、生暖かくじめっとした空気がわたしを包む。六月にしては珍しく雨が降っていなかったが、梅雨としてのプライドだけは捨てたくないのか、湿度だけは高いようだった。

東口まで歩いている間、男は一度も口を開かない。わたしはわたしで、仕事に向かう人々の忙しそうな雰囲気を流れるように感じている。一番近くにいるのに、心は一番遠い。

「ねえ」わたしは、唐突に切り出す。
「ん」
「もう、会うのやめよ」
周りが騒がしい。信号機のメロディが聴こえる。老人がスピーカーを持って何かをわめいている。心臓が波打ち、息が少し荒くなっている。怖い。

「わかった」男の声音が穏やかだったことに、まず安堵した。きっとわたしの代わりならいくらでもいるのだろう。
ごめんね、と小さい声で言うと、男は「ん」とだけ返事をした。

男と別れたあと、私は東口の喫煙所でたばこを吸った。じめっとした空気と煙が混ざって、あまり美味しくない。火を消してから、雲で覆われた空を見上げた。

こうやって関係を切ったところで、また新しい何かに依存するだけかもしれない。結局人生の方向性は変わらないのかもしれない。

それでも、わたしも見てみたかった。あっという間に遠くへ行ってしまったゆー君が見ている景色は、あの冬よりましになっているのかどうか。わたしに何ができるかなんてわからないけれど、できるだけのことはしてみたかった。自分なりにやってみて、駄目だったらそれでいいか、くらいの軽い気持ちだけれど、決断してみれば、不思議と重りを取り払った後のようなゆったりとした自由があった。

わたしは一歩ずつ、歩き出す。山手線が近くを走り抜けて行った。ついて来いよ、と言われた気分になり、小走りで電車を追いかけてみる。

すぐ息が切れる。足が痛い。体が熱くなり、全身が汗ばんでくる。心臓がばくばく鳴っている。

どうかな、ゆー君。冬が終われば必ず春が来るように、わたしたちの冬にも春は来るのかな。

思い切り息を吸い込むと、甘くくすぐったい風が体の中に入り込んできた。

夏が近づいている。

絵を描く頻度が上がる(かも)