誰でも1冊の本は書ける、という
昭和の大作家のS・Rの作品中に、こんな一文にありました。
『誰でも1冊の本は書けるが、ほとんどの人はそれに気がつかないまま一生を終える』と。
5年ほど前のメモにあるのですが、本の題名までは書き忘れていました。
なぜメモしたのか?
そこは、ハッキリと覚えてます。
彼にしては珍しい一文だからです。
どこが珍しいのか?
書くことについて述べているのが珍しいのです。
この一文のほかには、3つか4つほどしか見つけていません。
多くの作家は、手の内を明かさない。
メシの種となる書くことの技法は、なかなか明かしません。
現代の作家はネットで明かしてもいますが、過去の作家については、研究者でもない私は作品中からしか見つけるしかありません。
そう思っているときに「誰でも1冊の本は書けるが、ほとんどの人はそれに気がつかないまま一生を終える」の一文を不意に見つけてメモをとったのです。
なにが言いたいのかといいますと、そのまま。
誰だって1冊の本は書ける。
そう彼が言ってるのだから間違いないでしょう。
続く一文もそのままです。
ほとんどの人は、それに気がつかないまま一生を終える。
時間がない、という実際の問題もあるでしょう。
才能が必要だ、という思い込みもあるかもしれません。
誰も読まない、気恥ずかしいという謙遜もあるかもしれません。
サンプル記事の紹介
前置きが長くなった。
ゴーストライターについてである。
・・・と、S・Rのマネをしてみました。
なぜ、イニシャルになっているのかというと、私のような悪文書きの引き合いに、その名前を使うのはおこがましいという一応の自覚があるからです。
サンプル記事としている以下のサイトでも、随分とS・Rのマネをして書きましたが、象とミジンコ、いや、生物ですらない塵埃ほどの差があると、全くの別の文章となるようです。
ゴーストライターのサンプル記事にはどうか…と恥ずかしさにうな垂れるサイトです。
ただ、悪文であっても、誰であっても、文章は書いて残せるんだという趣旨でリンクします。
ゴーストライターの依頼について
話を戻します。
とやかくいわれる、作家のS・Rです。
創作が過ぎる、史観に偏りがあると。
まあでも、人の心の中は誰にもわからない。
歴史の本当のところなども誰にもわからない。
そうじゃないですか?
竜馬は「日本の夜明けぜよ!」と言った事実はあるのか?
源太郎は「火をつけた以上は消さにゃならんぞ!」と言った事実はあるのか?
義経は、1日で騎走して一ノ谷を奇襲した事実はあるのか?
家康は、小枝を切って軍配代わりに振った事実はあるのか?
どれも厳密な事実ではないでしょう。
でもそんなグラグラしている曖昧な事実よりも、彼はキリッと書いて多くの人の心を動かした。
それが創作であっても、多くの人が納得した。
史観に偏りがあっても、人の心の中に長く残っている。
それをやってのけた彼が、誰でも1冊の本は書けると言っている。
一方で、ほとんどの人はそれに気がつかないまま一生を終えるとも言っている。
しかしながら。
私にゴーストライターの依頼をすればそうはなりません、おまかせくださいと、彼の言の端の端の端のほうでゴザを敷かせていただいて、いっちょ商売させていただきます。
相談は無料です。
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