灰色を喰らう
人生で初めて「制限」を感じたのはきっと5歳のときだったと思う。
家で天下を取ったかのように走り回る僕も、手元のオモチャも、皿に盛られた濃色の苺も、背伸びしても手が届かない窓の外に広がる世界ですら、僕の完全性を疑わなかった。
そこに初めて顔を出したその「制限」は、白く細く小さかったが確実な存在として僕の前にある日現れた。
BBQ場で美味しくもない肉を焼き続ける大人たちはそれをタバコと呼び、僕に大人のシャボン玉だと説明した。
大人たちがバツが悪そうに僕から遠ざけるその「制限」もといタバコは、僕が知る限り初めての人生の制限であり障害だった。
僕の配下の世界ではシャボン玉には空気が入っていてキラキラしていて、ふわふわと空に飛んでいく。
大人の世界のシャボン玉はずいぶんせっかちに動く白色の煙で、目に入ると染みた。自分の支配下に置く価値を子供ながらに感じられなかった。
面積の少ない僕の短パンにもまるで存在を訴えかけるように臭いが残り、僕は自分の世界が侵された気がして人生で初めて自分を嘆いて泣いた。
*
「制限」は随分小さくなったものだ。
学ランの内側ポケットに入ったマイルドセブンが、芳ばしい香りを僕のシャツにこすり付ける。
煙が目に染みるとか、臭いを嫌がる期間はとうの昔に終わってしまった。
扉の閉まった屋上に向かい、僕は気だるげに階段をのぼっている。
目の前に現れた鍵付きの扉はもう大した問題じゃない。
高校近くの公園での喫煙がバレた高校2年生のある日、次の日屋上の掃除を罰として命じられ、生活指導担当の体育教師から鍵を渡された。
そのカギで屋上を開けたあと、すぐに駅前のカギ屋に走りスペアキーを作ったのだ。
以降、屋上の屋根付きスペースは僕の専用喫煙所となっていた。
屋上への階段をゆっくりと上がり、最上階へ。階段を見下ろし誰もいないことを確認する。ポケットから取り出した鍵で屋上を開け、屋上外側から施錠する。
安全地帯となった屋上で、内側ポケットに入っているタバコを小慣れた仕草で取り出し100円のライターで火を着ける。
乾燥した冬の空気の中で、小さくジッと音がする。駅でも自室でも吸えるタバコをわざわざ屋上に安全地帯を作ってまで吸うのは、きっと社会に対する一抹の反抗心と、屋上から一望できる雪国の田舎町の景色が特別な感情を僕にくれるからだったと思う。
僕の住んでいた街はとても静かな街で、どこでも穴掘れば温泉が湧き出るような街だった。
冬には数メートルにも及ぶ積雪が記録され、成人式も春に執り行われる。
空と雪山、人々の吐く白い息。すべてが白い街。
5月までは雪が溶けない。眼下に広がる景色も、3月の今はまだ8割ほど真っ白な景色だった。
人口は驚くほど少なく、高校も少ない。近隣の学生は電車や新幹線を活用し通うため、進学校だけが多くの生徒を寄せ集めていた。
自称進学校にカウントされる、僕専用喫煙所付きの当高校についても例外ではなかった。
市中の規模ではトップレベルに人は多かったし、いっちょ前に様々な推薦枠を設けて生徒を集めていた。
そんな数を集めることだけを目指していれば、僕のような異物が混入してもさほど高校側も驚かないだろう。
学年に数人程度は異物枠なんてものがあっていいと思う。
何も悪いことはしない、場所が欲しいだけの反抗期のための枠。
我ながら馬鹿馬鹿しい妄想。自嘲気味にそっとほくそ笑んで、大きく息を吸い込む。
数日後に控えた卒業式を経て、僕は東京に行くことが決まっていた。
住む先も、都内家賃4万円のボロアパートが決まっており、国から融資を受けた学資金の残りは11万円ほどだった。
荷造りの際、あまりに荷物が少ない自分に驚いてしまった。ボストンバッグ1つだった。どれだけ意図せず地球に優しい暮らしをしてきたのだろうか。
ボストンバッグの前に仁王立ちしながら、押し寄せる不安に後押しされるように、昨日の僕はもう1枚だけハンカチをボストンバッグに入れた。
多分、この専用喫煙所も今日が最後になるだろう。
随分床を灰で汚してしまった。コンクリートの重厚な床に、ところどころ焼けた跡や焦げた跡が見える。
僕がいなくなったらこの喫煙所はどうなるだろうか。
どこかの口うるさい体育教師が焦げ跡を見つけ、もうこの地域にすらいない僕に向けて悔しがり、地団駄を踏む姿を想像した。
少しだけ愉快で、かつ申し訳ない気持ちになりながら肺いっぱいに高校最後のタバコの煙を吸いこむ。
明日いなくなる僕が吐いた灰色の煙は、普段と変わらない真っ白な世界にすぐ溶けていった。
*
「制限」が取り払われてもう久しい。早速僕は日常におけるほぼ全ての制限が取り払われる20歳という敷居を超えて東京の歌舞伎町で生きていた。
上京した当日、探検気分で出歩いた新宿でサイズの合ってないスーツの男に捕まり、アルバイトを紹介された。
サイズの合ってないスーツの男は、誰でもわかるような口八丁で僕を誘い、その黄色く濁った歯の間から飛び出す甘言にほいほいと僕も乗った。
僕自身も東京のアルバイト探しはこんな簡単に決まるのかと驚いたものだ。
そしてすぐに自分がとてもグレーな仕事をしていることに、それ以上に驚いた。
街中で歩く女の子に声を掛けて仲良くなり、後日キャバクラの体験入店に誘う。
あくまで自分はキャバクラ側の人間で、1日だけ人が足りないからと促し、拝み倒し働いてもらう。
高額な日給をわたして味をしめた女の子をキャバクラに誘致していく。
一人が3か月働けば20万円。そのままソープやヘルスなどの風俗界隈に浸れば追加ボーナスが出た。
ルールは1つしか提示されておらず、強制をしないこと。
複数の法律スレスレのくせに、今更何に怯えてルールなんて作ったのかと同僚間で笑ったのを覚えている。
茶に染めた髪と、都会に染まった言葉を駆使して人を金に換えていた。
僕の生活基盤を確かに支えてくれた当時のアルバイトを貶せはしないが、あの職業をして得をしたことは少なかったと今も思う。
大学では既に3年生になっていた。
毎晩渋谷のクラブで大騒ぎして、自称ダンサーやモデルの卵と一緒にタクシーになだれ込むのが日課になっていた。
その日も、渋谷のClub asiaでスミノフの小瓶片手に僕はバーカウンター横にいた。
ステージが演出で真っ白に変わった。ふと、懐かしい景色が頭を過る。
タバコを吸いながら眺めた、屋上からの特別な景色だった。
クラブで焚かれたスモーク、喧噪とセットで漂うタバコの煙。
暗闇に光る色とりどりのカラフルなライト。
目の前に広がる光景を脳内でシャットアウトし、ぼんやりと記憶に想いを馳せる。
山なんてどこを見渡してもない。屋上でタバコを吸っていた僕もいない。
これだけの人に囲まれて尚、突然の寂しさに襲われたのは初めてだった。
僕は今日どうするんだろう。
また彼氏に一方的にフラれたと被害者を演じる女に、理解者の立場ですり寄るのか?
それとも、クラブに遊びに来た都会初心者の男の子を自分と同じ世界に引き込むのか?
いつまでたっても芽が出ないダンサーやモデルの卵のストレス発散に付き合うのか?
全てが堂々巡りな気がしてきた。僕を救う結論はどこなんだ。
このまま欲望の掃きだめと化した家賃数万円のアパートに、口車に乗った女の子を連れ込み自分の欲望に正直に生きるだけか?
夕方に目を覚まして、抜け殻と化した女の子を追い返し、また色とりどりのネオンに囲まれた歌舞伎町に繰り出すのか?
それがいつまで続くんだ?
突然全てがバカバカしくなって、その日のイベントでメインのDJの登場と入れ替わるように僕はasiaを出た。
*
今も自分で全く自分で説明ができない。asiaで持った感情も未だ名前がつかない。
帰り道のゴミ捨て場前で、その日着ていたジャケットをスミノフの瓶に包み、ゴミ箱に叩きこんだ。
同時にジャケット以上の何かを捨てたかったんだと思う。
半袖のインナーに秋の風が触る。火照った身体は何も感じない。
タバコに火を着け、円山町、道玄坂をあとにする。
僕をスカウトしたサイズの合わないスーツの男が事務所で言っていたことを思い出す。
「世の中の白と黒が入り混じったのが灰色だと思うだろ?白い人が黒くなったり、黒い人が白くなったりする過程があると思うだろ?残念。灰色の人間は確かに存在するんだ。ちょうどオレらのことだよ。灰色に生まれ、灰色を喰って生きてるんだ。わかるか。」
男は、相変わらず歯が汚なかった。
しかし目だけは鈍く、そして下品に爛々と光っていた。
世相を笑い、自分を嗤い、人を嘲った男は確かに僕の前に存在し、灰色の存在を謳っていた。
僕は今、何色なんだ。灰色になれたのか?
近くの公園のベンチに座る。やっと小寒さを感じてきた。
うなだれるようにベンチに身を任せてみる。咥えたタバコはまだ半分も残っている。
真っ黒な空だ。星なんて見えない。
カラフルな喧噪から逃げ出しても、星もない真っ黒な世界しか広がっていなかった。
咥えたタバコから出る「白色」だけが、僕を慰めるようにいつまでも夜空に溶けずに一緒に居続けてくれていた。
オバケへのお賽銭