指輪を乞う犬のように
「でも彼、少しは私のこと好きだと思うんです。いつもは素っ気ないけど、優しいときもあるし、毎回会ったら抱いてくれるし。興味がないってことはないと思うんです。どう思いますか?いつも家デートなんです。実はこの前も~...」
自らをある男性のセフレと認めながらも、決して彼女ポジションへの昇格が望めない立場ではないと信じる彼女は、僕の前で必死に自分と彼の共通点や、自称仲睦まじいエピソードを、証明するかのような口調で語る。
その話に相槌を打ちながら、僕は冷めきったホットコーヒーに再度口をつけ、春一番の風吹くカフェのテラス席で、超希望的観測とも言える彼女の「証明」に見せかけた「言い訳」に耳を貸していた。
世の中において、惚れた男が自分への興味を失わないように、自らの身体を差し出す女の子は非常に多い。
ある調べでは、40代までの女性のおよそ半分近くが過去意中の男性のセフレであった経験を有していたという。
それだけ「好きな男」というポジションは女性を意のままに操れる、現代のセクシャリティ免罪符ともいえる代物なのかもしれない。
「彼のことを想うと夜眠れなくて...たまに泣いちゃうときもあります。でも、私みたいな可愛くもない女は、身体だけ欲しがられてもしょうがないかなって思うんです。身体も私の一部だし、彼がその私の一部を好きで、求めていることには変わりないし。私はそれでも幸せとも思えるし。」
およそ5分しゃべり続けた彼女の言い訳じみた「証明」が終わり、僕は彼女の脳天に斧を振り下ろす覚悟で、一言だけ告げた。
「性欲を向けられることは、愛されている証明じゃない。」
*
異性に自分の身体的な魅力を感じてもらい、身体を欲してもらえることを名誉と感じる人は意外と多い。
もしかしたら、容姿至上主義の文化が未だ根深い、女性の世界ではより顕著かもしれない。
それでも、向けられた性欲は、決して男性からの愛の証明ではない。
そもそも、愛自体証明の手段がなく、表現手法も人によって大きく違う。
そんな中で、「私は沢山彼から身体を求められてる。だから彼から愛されている」と考えるのはかなり心細い論理じゃないか?
ここで断言しておくが、例えるなら男性には上半身と下半身にそれぞれに脳みそがついていて、下半身の脳みそは上半身の意思や利害とは無関係に動く。
「どうやったら目の前にいる女性とSexできるか」程度のことしか考えないお粗末な脳みそだ。
そのお粗末脳みそが唯一考え、行使し得る愛情表現方法こそが「Sex」なのだ。
結論、冒頭の相談者は、男の下半身で考えられた愛情表現しかされていないことになる。
つまり、半分程度の愛情しか表現されていない。
仮に男性が上半身の脳みそを使っていたら、きっとSex以外で全身全霊を賭して相談者への愛情を表現するだろう。例えば、
・デートプランを工夫の利いたものにする
・会話の内容や質を高める
・常に優しく接する
...等。
冒頭の話を聞く限り、上半身の脳みそが使われた上で接してもらえてるとは考えにくい。
*
もし相談者と同じような悩みを抱える人がこのnoteを見ていたら、今一度自分の立場と状況を見直してみて欲しい。
性欲が向けられているだけで、ほぼ言いなりなのに、愛情を向けられていると勘違いしてない?
彼からの愛情の表現は今のままで貴女は満足?
相談者のように夜中、もっと愛されたいと望む感情の逆流を、枕で押し殺すような日々を送っていない?
自分へ問いかけ、一つでも心当たりが出てきたら現状改善の余地があると思う。
最後に、全国のセフレから本命への昇格を狙う女性たちへ。
薄々気づいているとは思うが、セフレから彼女への昇格は難しい。
そして本来、貴女が望むのは、指輪をもらえるような恋人の立場だと思う。
しかし例えるならセフレという立場は、指輪をもらう恋人どころか、首輪を掛けられた犬だ。
向けられた性欲だけで愛されていると勘違いし、ゼロに等しい昇格の希望にすがっていてはいけない。
時間の無駄だ。
求められるがままに身体を差し出す犬のような従順さは、今ここでその首輪と一緒に捨ていこう。
きっと誰からも首輪をつけられないような女性だけが、常に誰かの本命であり続ける女性だろうから。
オバケへのお賽銭