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淫心湧かず明けた朝。

5時半のアラームで目が覚めた。こめかみの辺りが薄らと痛い。いつも置いている場所に手を伸ばしても携帯がないことに気が付いて思わず舌打ちをした。アラーム音はどこかでけたたましく鳴り響いている。音の所在を探すために仕方なく起き上がって、ふと気付く。
(私の部屋じゃない)
幸い携帯はベッド下に落ちていてアラームは消すことが出来た。隣を見れば泰平な顔をして眠る男の子が規則正しく寝息を立てていた。
ああ、そうだ。と思い出す。
昨夜、1人で飲んでいたら声を掛けられた。無視して飲んでいてもめげずに話しかけてくるからつい笑って反応してしまった。思いの外楽しく飲んでしまい、遂には終電を逃してしまったのだ。
「俺ん家、こっから近いけど来る?」
あんまりスマートと言えない誘い文句が却って好印象で行くと答えた。
だからと言うわけでもないが、目が覚めた自分を見下ろして服を着ていたことに少し驚く。なんだセックスはしなかったのか、と皺になったスカートやブラウスを見て思った。

ワンルームのその部屋で換気扇を回し煙草に火を付ける。やっぱりこめかみが痛む。最後の日本酒は余計だったかなぁ、と痛みを紛らわせるように煙を吐き出した。灰皿のある部屋だから禁煙と言うことはないだろう。
本当はシャワーも浴びたいし、アイロンを借りて皺も伸ばしたい。メイクだけは乱暴にシートで落としたみたいだけれど、カバンに入ってるメイク用品と言えばSPF50の日焼け止めだけだ。
煙草、吸い終わったら帰ろう。まだ6時前だけれど始発には遅いくらいだ。今から帰れば今日の予定にも間に合うだろうと逆算し、灰皿に短くなった煙草を押し付けゆっくりと煙を吐き出した。

ぼさぼさの髪を手櫛でなんとか撫で付けてゴムで括った。洗面所で口を丁寧にゆすいで、水で顔も洗って仕方なく日焼け止めを直に塗った。
冬なら良かった、と少し思う。コートを羽織れば皺の寄ったブラウスもスカートも隠れてしまうのに。まぁいい仕方ない、と嘆息し鞄の中の眼鏡ケースから眼鏡を取り出して掛ける。スッピンが少しでも誤魔化せると良いのだけど、と考えながら洗面所から出ると家主の男の子は目を覚ましていた。
ああ、もう。そう思ったが顔に出さないようにゆっくりと微笑む。
「おはよ。ごめんね、起こした?」
「ああ。うん?えっと」
彼もまた、一体どうして自分の部屋に知らない女がいるのかと考えているようだった。
「昨日、一緒に飲んだの覚えてる?」
「うん」
「家に来て良いって言ったのは?」
「あんま覚えてない」
そっか、と小さく呟いてまた微笑んだ。出来るだけ慈悲深く見えれば良いな、と思う。
見るからに女の影のない部屋だから心配は要らないと思うけど、痕跡は可能な限り消して帰りたかった。
「もう帰るね」
胸下でひらひら手を振る。
「待って待って」
慌てた様子で男の子はベッドから下りる。二日酔いのせいか足元が覚束無い。それでも狭い部屋だから3歩も歩けば十分に追い付く。
「連絡先、教えてよ」
面白いことを言う子だな、と可笑しくて嘘じゃない笑みが零れた。小首を傾げて尋ねる。
「何のために?」
男の子は一瞬目を見開いて、何かを言いかけ結局何も言わなかった。再度、手を振りドアノブを回す。

外は、せいせいするほどの曇天だった。

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