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2人目妊娠の覚悟

 最後の決断

 復職後、2人目を考えることもあったが、実際には子供の体調不良から自分の体調不良で通院が叶わない日々が続いた。
 それが、2歳近くになると体調不良が珍しいことになり、今だと、通院を開始した。
 自分の体力を考えて、今年いっぱい頑張って、、、と、1人、心に決めてクリニックへ
行った。

 

腫瘍マーカーをとることに

 すんなりと、移植にはいけなかった。
 体調不良で抗生剤を使用した影響が、子宮に出てしまい、マイクロポリープが多すぎて着床できない可能性があった。
 それから、チョコレート嚢腫になっており、以前には問題がなかったので、追加検査を受け、初めて腫瘍マーカーを調べることになった。 
 帝王切開の人はたまになるが、子宮がくびれすぎていないため、影響はしていないと思うがと、、、検査結果をまつことになった。

結果待ち

 あの数日は、とても長く感じた。
 生きた心地がしないとは、このことだった。
 そして、この時、夫が家出した。
 青天の霹靂、雷が落ちたかと思うほどの衝撃で、、、今後の信用度に関わる問題だ。
 問題は、金銭面だった。仕事をし始めたとしても、時短の金額とほぼ家賃で消える給料、、、それで、子供1人をどう養えというのかとパニックになった。
 まして、もしかしたら癌になっているかもしれないという思いから、今後の検査や治療費も考えなければいけない、、、
 こんなときに、助け合う夫婦像が壊れたことで、私は、自らお互いの両親、上司、園の先生に状況を伝え、今後のことについて整理しつつ、子供の精神面を第一に考えて動ける準備を始めた。
 

夫、戻る

 数日後、夫は戻ってきたが、さらに馬鹿げたことを申し出てきた。
 離婚はまだ、しない。別居する。賃貸は探してきた。
  自分勝手すぎるにもほどがあり、一番は子供の事を考えなさすぎる発言に怒りしかなかった。
  夫不在の時の子供は、夜になるとママを連呼した。ママも居なくならないでと、心細さが伝わり、子供ながらに不安なことを伝えていたことが、今でも、嫌、一生、忘れられない。
 子供がいなければ、私は、さっさと離婚していただろう。振り回されるのは、つかれるし、キャリアを突き詰められるから。
 けれど、今は状況が違う。子供の事が第一であり、腐っても父親はこの人しかいないのだから。
 そう思い、別居はしないというと、じゃあ離婚したいならしていいよと返事があった。離婚してイイダト?何、上から?と、さらに怒りは増したが、今は感情に任せてられないし、こちらから離婚してと言えば資金面なども割に合わないことを提示されて、今までの働いてきた給料をどぶに捨てることになる。
 離婚はしないことや、まず、出ていった理由を聞き、お互いに話し合えることを見つけていった。

はなしあいの結果

 夫は自分の意見が通ったと思い、私は、生活費の自由を得たことになり、ストレスが緩和された状況になった。
 このことから、わたしが次に取りかかったのは、○歳時健診のときの保健師相談のアンケートに正直に書いてみた。
 すると、聞き取り調査を受け、ひとり親の生活に関する情報提供を受けることができた。必要ないのが、一番だがあの子供のママという声が耳からはなれず、1人でも立派に育てるための手段と知識が必要なことを痛感したからだ。
 離婚届けを出す前に、相談できるとこに相談しきってからでも、遅くはないことを、じぶんに言い聞かせた。
 弁護士費用の貯蓄も、何らかの形でしなければとも思い、さらに仕事は辞められないと思った。

子供の様子

はじめは不安を隠してる様子で明るく過ごしたが、今では普通通りだ。
 だが、幼少期の心の傷は、潜在意識に刷り込まれているだろうから、この子が思春期から成人にかけて、アイディンティティを脅かされる頃に障害があるときは、私は夫に怒りをぶつけると思う。
 更年期にもなる歳だから、感情に任せてぶちギレするだろう。。。こうならないように、子供の心をその都度、ケアしていきたいと思う。
 

2人目の決意

 この状況になぜ、2人目を考えたのかというと、夫がいなくなった数日は子供の寂しさが痛いくらいに刺さってきた。そこで、兄弟がいれば、、、と思うことが強くなった。
 私たちの年齢で、最近、癌で亡くなる知人が増えているのもあり、いずれは私や夫もこの子にとってまだまだ一緒にいたい時に亡くならないとは限らない、、、と悲しいことを考える機会が多すぎた。
 そこで、私は、子供を授かるかどうかまた、チャレンジしようと思ったのだ。
 夫の行動が、更に2人目を望む動機になったことで、夫の存在価値は私にとっては低くなっていったが、、、。
 それも、自業自得と思ってもらうしかない。

 

腫瘍マーカーの結果

 異常はなく、原因は子供の風邪を繰り返しうつったことで、抗生剤を飲むことが一年で増えていたことが、体内のバランスを壊していたことがわかった。
 それほど、抗生剤は便利な薬だが、使い方次第では厄介な薬だと身をもって知った。
 これからは、予防医学と対症療法を中心にケアすることが大事だなぁと、思っている。

いよいよ、移植

 採卵がないので、スケジュールも簡潔で、日々の検査や処方も保険適応になると雲泥の差で治療を受けられた。
 ただし、それでも家計を圧迫する負担はまだあり、私が復職していたから受けられたような額だった。
 移植のため待機していると、以前は移植後に安静にする時間があったが、今はすぐ帰れるようになっていた。
 移植はやはり苦痛があるが、それは人によって感じ方が違うようだった。今回は、前回より痛みを感じたが、子供のためと思い、耐えた。
 

判定まで

 出血と腹痛がないことを願いながら日々過ごしていたが、今回は子供が手足口病に罹患し、私もうつり、喉の口内炎や手のチリチリ感が治まった頃に判定となるなど、忘れられない時期になった。
 今も順調に育ってくれているだろう、赤ちゃんを抱けるのはまだ先だが、1人目も2人目も安心して平和の中で育てられることを、第一に願う。

 

さいごに

 世界中が平和になりますように。
 世の中の母親は、戦争のために子供を産み育てていません。
 一人一人が笑顔でその子が、幸せな一生を終えられるようにと願いながら、産み育ててるのです。
 1人目がお腹にいるときの、コロナ禍で棺がまちに溢れた映像や、ウクライナの妊婦さんたちが血まみれで運ばれる映像、未熟児の管理できない映像は、一生、忘れられません。
 忘れてはいけないと思います。
 じぶんが幸せならいい、それは幻想であり、周りが幸せだからじぶんも幸せと感じられる指導者が各国のリーダーになる世界になりますように。


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