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「折角」マインドで続ける「清潔」の是(GetNaviプロデューサー松井謙介)

本稿はGetNaviプロデューサー・松井謙介が「#清潔のマイルール」をテーマに、自身が感じた「清潔」のあり方を語っていきます。キーワードは「折角」です。

意味があること、意味がないこと


「これって、本当に意味あるのだろうか?」 

そんな思いにとらわれるシーンが、仕事にはある。その代表例が「定例会議」だろう。「定例」と名が付くだけで、「なんだか毎週やってしまう」という、アレだ。その時間が来たらパソコンを小脇に抱え、会議室に向かう。議題はあるようなないようなで、会議終了後も何が決まったのかよくわからない。「会議をすること」、それ自体が目的になってしまっているのだ。

時間を埋めるために担当者が、半ば無理やりに議題を作り、忙しいみんなを集め、なんとはなしにその議題をなぞって終わりにする。 本来であれば、何かを決めたり解決したりするはずの会議が、ただただ無為な時間を過ごすだけになってしまう。これは、いわゆる一つの「手段の目的化」ってヤツだろう。

「ウェブ広告運用」なども、場合によっては手段が目的になりがちだ。「広告を回す」ことに一生懸命になりすぎて、「肝心の目的=売り上げ拡大」がもうどうでもよくなり、広告露出の数値ばっかり追いかけるようになっているのだ。

質が悪いのは会議も広告の運用も、時間はとられるので「忙しくはなる」ということ。「なんか私って、すごく働いてる!」という気分になるが、現実には「結果を出す」というゴールから遠ざかっているわけだ。これが「手段の目的化」であり、とにかく恐ろしいものである。

私の挑戦も同じ結末をたどった


私は「健康診断で、憧れのC判定を獲る」(現在はE判定)という大きな人生目標を持っている(小さい気もする)。これを実現すべく、昨年の夏、キックボクシングジムへの入会を果たした。毎週ジムに通っては、ミットやサンドバッグに打撃を与え、汗をダラダラと流す。だが、いかんせん積年の運動不足は想像以上に手ごわいもので、一度キックボクシングのトレーニングを行うと、腰や手首や背中など、どこか一か所を痛めてしまうのだ。その結果、ジムの翌日には整体に行くという「ジム経由、整体院行き」という謎ルーティンを繰り返していた。

↑写真はイメージで、筆者ではありません

あれ?

これって、整体院がセットになる時点で健康に悪いのでは…? 

それでも「折角入会したから」という理由だけでキックボクシングに通い、また腰や背中を痛める日々が続いた。「ストレス解消になる」とか「仲間がいて楽しい」とか別のメリットがあればいいが、特にそんなこともなく、ただ「折角月謝を払っているしもったいない」「折角入会したんだから続けないと」「折角先生が指導してくれるし申し訳ない」という後ろ向きな理由で、私はキックボクシングジムに通っていた。 家族に弱音を吐くと、「折角入ったのに、もう辞めるわけ?」と、氷の微笑状態である。

だがね。

これもまた「手段の目的化」なんじゃないか? この取り組みの大目標は「健康になる(=C判定)」なはずだ。毎週適度な運動をこなすことで、毎日お酒で痛めつけている肝機能が改善すればいい。その思いで始めた挑戦である。だが現実はどうだろう。「折角入会したから」辞められないうえに、毎回腰や背中などを痛めるという超悪循環に陥ってるではないか!

さらに、もう一つ辛いことがあった。ミットを打つ。サンドバックを蹴る。これは、どれも非常に楽しい。私はもともと空手をやっていたこともあり、パンチやキックを習得するには時間がかからなかった。先生も、「お、松井さん、自然に強く蹴れますね。なにか格闘技やってました?」と問うほどだった。

問題は、そこに「コミュニティ」が存在していたことだ。教室に入ると、すでに5、6人の仲間らしきチームと先生が、ワイワイやっているのである。しかも、 年のころは30前後(多分)。私は、そこに突如出現した「齢47」の超異分子だったのだ。

「はい、次スパーリングやるよ! 二人一組になって!!」

これだ。

小学生時代のフォークダンス以来の超難関である。私を入れて生徒が「奇数」になるときは、先生が「はい、松井さんは私とやりましょう!」となりなんだか気恥ずかしいし、偶数のときは先述のコミュニティメンバの一人とやることになる。その際は、決してそんなことはないのだろうけど、「おい、お前あの余ってるおっさんとやってやれよ」的な空気が場に蔓延するように感じるのだ。

コミュニティ以外にも課題はあった。

「よーし、ではミット打ち、やりましょう! 二人一組になって!!」
「よっしゃ!」
「あ、松井さん! 松井さんの相手はすごくパワーがある方なんで、ケガしたらアレだから、えーと、松井さんは、よーし、少し見学で!」
「おっしゃ!!!!」

悲しみ。

ジムに通っている生徒なのに、練習時点で戦力外通告。そんなことあるだろうか? それでも私はしばらく通った。理由はそう、「『折角』入ったのに、すぐやめるのはダサい」からだ。

次の挑戦を阻む、恐怖のワード「折角」

「折角」「せっかく」

この言葉は、悪である。

「折角、いい会社に入ったのだから、辞めない方がいい」

“ありそう“なアドバイスである。そんな「折角」は、とにかく怪しい。辞めるのは本人の自由。辞めて、学び直しをしたり、再出発したりするにもいいだろう。それを引き留めるための「折角」は悪でしかない。

「折角、ここまで頑張って大きくしたんだから、その事業を撤退しなくてもいいんじゃない」

そんなことない。止めるメリットと止めないメリットを比較しての判断だろう。その「折角」のせいで、無駄なコストやリソースを費やしているかもしれない。

「折角高いお金を出して入会したキックボクシングをすぐに辞める」。これで、いいのである。「折角」にとらわれ、本来の目的を見失ってはいけないのだ。

ということで、「折角」を断ち切り、この冬、キックボクシングのお金をフィットネスジムに回してみた。

はっきり言って、最高だ。マジで「折角」とか言って、キックボクシング退会を先延ばしにしていた自分をぶん殴りたい。なにせ、ジムは個人プレイだから必要以上に人と接しなくていいのが気持ちいいし、いろんなIT機器を使いながら有酸素運動ができるのが最高。家からも近く、はっきり言って100倍くらいキックボクシングより有効なのである。

【折角】

いろいろの困難を排して事をするさま。無理をして。苦労して。わざわざ。「――来てくれたんだから、ゆっくりしていきなさい」

禁止にしようぜ、この使い方。折角続けている会議も、折角大きくしたあの事業も、折角始めたキックボクシングも、成果が続かないなら次だ次。次のアイデアを考えるために、私たちは生きて、考え、行動しているんだろう。「折角」の呪縛は、頭の回転を止める罠だ。身をもってそのことを学んだ。

ジムには、主に、23時前後の夜遅く通っている。繰り返すが、控えめに言ってマーベラス。インクレディブル。要はサイコーなのだ。 ランニングマシンやバイクにはモニタが据え付けられており、テレビやYouTubeが見られるし、Bluetoothイヤホンも接続可能。もちろん自前のスマホを立てかけて、自身で契約している各種動画配信サービスを楽しんだっていい。Wi-Fiは当然完備だ。これまでも、深夜、自宅でビールでも飲みながら、だらしなく延々と「イカゲーム」なんかを見ていたわけだから、同時に運動ができちゃう利点は果てしない。


↑写真はイメージで、筆者ではありません

もちろん、あらゆる部位の筋肉を鍛えるマシンも超充実。自分なりに負荷を設定してトレーニングできるので、無理がない。太ももや足腰など、これまで日常ではあまり意識してこなかった箇所を鍛えることもでき、これならば来るべきロコモ時代にもなんだか打ち勝てそうな気がしている。 キックボクシングのように、日常にあまり出てこない動きをするわけでもないので、身体の他の箇所に負担をかけることもないのである。

超快適ジム生活に会った落とし穴

もう一つ本当に良い点があった。それは、24時間オープンなので、夜中など人が少ない時間に黙々とトレーニングに集中できるという点だ。20時以降はトレーナーもおらず、すべて自己完結。当然悪夢の「二人一組のスパーリング」みたいなものもないので、ほかの人と会話することさえない。ジムの中は薄いBGMだけが鳴り響いている、超快適空間なのだ。

しかし、その快適は、破られた。

ある日の23時前後。その日もジムは、自分を含めて4、5名程度で、特に会話もない個人活動がどこまでも気持ちよい。私は、30分程度の有酸素運動を終え、ショルダープレスのようなマシンで汗を流していた。いつもルーティンは決まっている。次は腹筋を鍛える「アブドミナルクランチ」だ。

タオルで汗を拭き、立ち上がったその時。

近くのマシンでトレーニング中だった青年が、「ちょっとあなた、すみませんっ」と、私に声をかけてきたのだ。いや、その口調は叱責に近い。静かなジムに険しい声が響く。

「あの。マシン使い終わったんだったら、すぐにアルコール消毒するのがルールです。コロナウイルスはまだ収束していません。マシンを清潔に保つのがこのジムの常識ですから。あなた、汗もかいていますし、使ったものはキレイにしてください。それくらいわかりますよね」
「は、はぃ、すみません……」

47歳児、ガチのお説教である。

アルコールはここ。除菌ペーパーはここ。一つひとつ教えてくれた。「マシンでのエクササイズが終わったら、身体が触れた場所を拭く」。私はジム初心者であり、人がいない時間ばかり利用していた私は、このルールを知らなかったのだ。

まあ一般論に照らし合わせれば、拭いて当然だ。いまなおコロナ禍コロナ禍真っただ中である、知っていればそりゃきちんとやった。青年の叱責には何ら反論はない。そしてその方は、自分の使い終わったマシンについては、ものすごく丁寧 に清掃、消毒を行っており、頭が下がる思いだ。

でもさ。

もうちょい優しく言ってくれないものだろうか。なんだかしょんぼりするのである。

ジム以外でも終わらないお説教

こんなこともあった。

とあるコワーキングスペースでのできごとである。その空間は、10人くらいが働けるエリアだった。そこそこ広々としており、その時点で働いている人は私を含め3人。なるべく距離を取って席についており、感染症には配慮しているわけだ。そこで私は、ペットボトルのお茶を手に取り、マスクを外して飲んだ。

その際、まあよくあることだと思うのだけど、変な感じでお茶を飲み込んでしてしまい、ケホッケホッと咳払いが出たのだ。むせたというか、無意識の反射反応である。まあ、のどの調子を整える程度の小さな咳払いだ。

「ケホッ」
「ちょっと! あなた、咳をするのにマスクもできないんですか!! マスクできないなら、ここから至急退出してください!!!!」

怖い。
怖いのである。

いきなりのテンションマックス。「す、すみません……」謝ることは謝るけど、どうも釈然としない。お茶飲めばマスクも外すし、咳払いが出ることもある。なのに、いきなり見ず知らずの人に本格派のお説教とは、ちょっと攻撃的すぎやしないか。

↑写真はイメージで、筆者ではありません

「清潔であること」
「衛生的であること」

それはもちろん素晴らしいし、徹底するにこしたことはない。でもなんというか、あんまりにもその考えにガチガチに縛られるのは嫌だなとも思う。「清潔」「衛生」を手に入れる代わりに、社会は「思いやり」とか「寛容」とか、そういうパラメータがどんどん減ってしまってないだろうか?

コロナウイルスは、「折角」を、「清潔であること」に、紐づけてしまったのだ。

「折角はじめたマスク生活、続けときましょう」
「折角アルコール除菌清掃を始めたんだから、今後も徹底しましょう」

いいことならば、続ければいい。それはその通り。でも、先にも書いたように「折角」は、思考停止を導く危険なワードだ。マスクを外しての「ケホッ」が絶対ダメで、「マスクしてのいきなり怒鳴りつけ」のほうがいいなんて、そんな社会はイヤだ。もっというと、怒鳴りつけのほうが結局ウイルスをまき散らしそうじゃないか。そう思ってしまうわけで、その辺は少し落ち着いていこう。

ここ数年で、「清潔」「衛星」へのスタンスは確実に変わった。「厳しくなった」ともいえる。でも、その「徹底した清潔」の代償が、「ギスギスした人間関係」だとしたら、そんな「清潔がんじがらめ」は嫌だと思う。もちろん「清潔」はいいことだし、必要なこと。でも清潔を遵守するあまりに、「規則」みたいになってしまい、「規則」を逸脱した他者を攻撃する社会は好きではない。

それからもう一つ。

47歳って、こんなに怒られるものだろうか。「社会が清潔に縛られすぎている」とかなんとかもっともらしく書いてきたわけが、どうも、本当の問題は私本人にあるような気もする。

2023年は「清潔」を守って、ほかの人に怒られない一年にしたいと思う。小学生の目標みたいだ。

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