百聞は一見にしかずは、百見は○○にしかず?
百聞は一見にしかず
という故事成語がある。
「百聞」とは読んで自の如く、「百回聞くこと」である。
「一見」とは、「一回見ること」である。
つまり、「人から何度も聞くより、実際に自分の目で見た方がよい。」という意味である。
しかし、故事成語は何千年も前の中国の経験則からなるありがたいお言葉を、数百年前に日本語に直したものである。その言葉が、現代社会でも全く同じ意味で解釈・活用されるべきかと問われると、答えに悩むのも事実である。それでは、「百聞は一見にしかず」は、どのように意味を改めればよいのだろうか。
そもそもこの時代、人から話を「聞く」ということよりも、人が大勢の人に「見せる」ということの方が多くなっている。
「聞く」という動作では、聞き手は何か反応を示さなくてはならない。相槌や反論、質問。それら一連を含めて「聞く」である。対して、「見る」ことを考えてみると、そこに反応は必要ない。なぜなら、何かを見るときに言葉は必要ないからである。その上、自らの意思で「見る」ことよりも、自動化されたアルゴリズムの波に乗って、その人自身の好みに合わされたわかりやすい説明付きの映像を現代では見せられる。または、大きな見出しと抽象化された現実をなるべく少ない文字でまとめた記事を、視覚だけで大まかな内容を理解し、それだけで全体を理解したつもりでいる。これは果たして、古来の「見る」と同じなのだろうか。
では、古来の「見る」とはどのようなことだったのだろうか。何千年も昔、映像を記録する媒体がなかった時代。人間は文字を生み出し、文字を記録する紙を生み出し、そしてその紙に絵を描いて伝えた。しかし、紙に絵を描いて伝えそれを「見た」としても、これは「見る」ことだとは言えない。なぜなら、それだけでは全体を理解することが難しいからである。この時代の「見る」とは、「実際に・その場で」という意味が含まれている。つまり、「見る」の本来の意味は、「実際にそれを体験すること」という意味だと捉えるのが最も適しているのではなかろうか。
古代の「見る」と現代の「見る」が根本的に違うのは、本人がその場にいなくても「見る」ことができるということである。であるとするならば、「百聞は一見にしかず」という言葉の意味を巡って、古来人と現代人の間で認識に齟齬が生じてしまうことも、何らおかしなことではないだろう。
さて、では「百聞は一見にしかず」を、言葉の意味はそのままの意味で、現代風に解釈してみよう。
「百聞」とは、人との会話の中で「聞いたこと」だと考えられる。人との会話でなくとも、学校の授業でもいい。この場合の「百聞」には、視覚的情報は含まれないこととしよう。では、現代で言う「一見」とは何か。先程述べたことを参考にすると、「視覚を用いて得た情報」だと考えられる。例えば、ネットで見た記事の中にあった写真。もしくはSNS媒体で無数に流れてくる映像──。するとここで、少し疑問が生じる。そう、現代では、「聞く」ことと「見る」ことが、ほぼ同一化しているのである。古来にはもちろん、映像は存在しなかった。しかし現代では、実際の映像を「見ながら」、それについての説明を「聞く」ことができる。これではさながら、「聞は見の如く」である。
少し話題がズレてしまったので元に戻ろう。上記のことから、現代風に解釈すると「何回も話を聞くよりも、一回写真・映像を見たほうがわかりやすい。」となるだろう。実際、多くの人がこういう意味だと捉えていると思う。では、現代人が「一聞」しただけで理解できるよう改めるとしたら、どうなるだろうか。
「聞く」は、現代では「見る」にそのほとんどの役割を奪われているということは、今までも述べたように明白である。 では「聞く」は「見る」にしよう。では、「見る」は何か。古来での意味は「実際に体験する」ということであった。ならば、「見る」は「体験する」になる。しかし、このままだと「百見は一体験にしかず」となり、少し語感が不恰好である。
「体験する。」
この意味を漢字一文字で表すとするならば何が相応しいだろう。「験」。少し違う。「経」。違う。───
─何も思い浮かばない。一文字で表すのがこれほど難しいとは、私の語彙量の少なきを悪む。しかし、言い訳がましくはなるが、言葉の意味が目まぐるしく変わり新たな言葉が新たな言葉を生む現代において、これはこういう意味なのだと、イコールで結び説明を加えるのもナンセンスであろう。言葉は日々変わりゆく。その時々の生きた言葉の姿の変遷を、死んでいった言葉の姿を浮かべながら眺めるのも乙であろう。
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