瀧本さんとの14年

フライングで周知されてしまいましたが、弊社創業メンバーであり、現社外取締役の瀧本哲史が亡くなりました。
皆さまより生前賜りましたご厚誼に対し、心より御礼申し上げます
葬儀につきましては 故人の遺志により近親者のみにて執り行いました。

ご遺族のご要望に沿う形で、葬儀後のご報告となりましたこと、お許しください。略儀ながら謹んでご通知申し上げます。

ここから先は、自分の心の整理がまだつかないので、整理するために書いています。長いし、つらつらと書いてしまうと思うので確定情報だけという方はここで閉じていただければと思います。

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「とりあえず久保田さんには伝えておきますが、しばらく休むことにします。これまで全力で走り過ぎたので人生の夏休みだと思ってゆっくり休みます。プロジェクトとして非常にチャレンジングですが、まあ大丈夫でしょう。というわけで、連絡がつかなくなることが増えます。諸々宜しくお願い致します。」

病気をプロジェクトと言い換えるのがいかにも瀧本さんらしいなと思いながら「復帰を祈ってます」と伝えました。

自分が社長を引き継いで2年が経過したタイミングで、大きく、かつ判断の割れる意思決定をいくつか抱えていました。
頭が真っ白になりました。
その中で、このことを外に知られないように抱えながら平静を保ち行動するのは、つらいものがありました。

聞かされていたのは、ごく僅かの人だったと思います。
2015年の夏のことでした。

Slackを見返すとこんなやりとりが。


僕が走っていて横からタクシーに吹っ飛ばされた時のやりとりのようですね。

出会い

僕の就活がひと段落して会社を創業した直後、手伝ってくれる仲間を増やしたいのにつてがなかった創業者の上田が、瀧本さんに相談して「それなら東大とか早稲田で無駄に顔の広いやつを探してきて仲間に引き入れれば」と言われて、あ、それならコンサル入る予定のやつがゼミにいたと半ば強引に連れてこられてからの縁ですが、関係性はどんどん変わっていきました。(指導教官の岩井克人先生は優しい方なので、卒業時に随分と心配されました)

最初はオトバンクのボランティアスタッフ、そして一社員として関わり始めましたが、当初は社内にいる瀧本さんの書生のような扱いで、とにかく厳しくされました。当時はまだ30そこそこだったと思うので、フィードバックもより激烈でした。

時に共に臨んだ打ち合わせの場で、いかに自分が至らないかを目の前の相手そっちのけで詰めまくられたことも一度や二度ではありませんでした。一刻も早く上田と肩を並べさせるためだったのか、上田の得意なこと以外は全てカバーすること、そして必ず結果を出すことを求められました。

瀧本さんといえば、容赦ない、徹底的、戦略的・道義的正しさ、そして絶対的な実力と成果という言葉が合います。

とにかく結果がすべて、やるべきことをやっていない人にかけるアドバイスなんて1つもないという方針で、どれだけ考えても自信が持てないものについて相談しようにも捕まらずに住居を推定し、近くのロイホでずっと待ち伏せていたことが何度もありました。

「コモディティになりたくないのは誰しもが思うことだけど、その道は、いばらの道なんですよぉ、久保田さん」とフリーザみたいな声でよく言われました。

それからNO.2として、そして社長として、色々と経験し結果を出しながら話す内容もどんどんと変わっていきました。

そしてどんなに成果を出そうが、褒められることなどなく、これくらいはできて当然といったスタンスで、逆にビッグディール成立後は厳しく当たられることが多かったように思います。

他の人は全然怒られたりしないし、結果出してるのになんで俺だけ…とよく思いながらも、深く落ち込んでなにくそと踏ん張る、その繰り返しでした。

時にどうにもならないことで折れそうになると、急に休みを取れと言われて、ホテルから飛行機まで全部用意され、しかも社内にも通知されていたり、これまで彼が関わった案件でつらかったときの話(主に日本交通時代や投資先の話が多かったですが)をシェアされて「それでもここまで来ているから大丈夫、振り切れ、やり抜け」と励まされてきました。
「どうでした?ダメだったらPRONTOで反省会しましょう、作戦会議はドトールで」とよく誘われました。

まさに激烈という言葉がふさわしい厳しさと、一方でリスクを取り全力で課題に立ち向かっている人間に対しては果てしない優しさを傾けてくださる、慈愛の満ちた方でした。

瀧本さんの教えは質実剛健、骨太で中身を重視する傾向が強く、相手がどんなに大きく強かろうと、自分の胸に手をやって正しくないと思うなら戦え、徹底的にファクトを拾え、ロジックを組み上げることに妥協するな、結果に誠実であれ、そして絶対にあきらめるな、ど真ん中をいけ、小手先じゃなく直球で勝負しろ、そんなことをそれこそ徹底的に仕込まれてきました。物事を教わった人がこの人ともう1人くらいなので、いまさら変えられません。

・・・話を元に戻します。

「常に最悪のことを想定して準備をするべき」

そう言われてきたので、考えたくはないし、本人に言われたことはないけど、休むと言われた頃からもしもの時の準備を密かに始めることにしました。以来、こちらからの相談事を極端に減らし、取締役会と時々来るDMでの雑談ベースのやりとりにシフトしていきました。
仮説検証の裏取りも我慢してしなくなったのは、少し寂しかった。

その後、奇跡的に復活し『ミライの授業』の執筆、瀧本ゼミをはじめとした後進の育成など精力的に動くとともにクオン、PROGRITや企業法務革新基盤をはじめとして、会社設立前段階からサポートを、彼が考えるエンジェル投資家のスタイルでインダストリー問わず、多くのスタートアップ支援を継続して行われていました。
時が経つほどに、特に2016年以降は相談を受けることも増えたように思います。

僕が直接会って話したのは1ヶ月半ほど前、最後に会話をしたのは2日前でした。

その1ヶ月半ほど前も「君なら大丈夫でしょう。ほら、ここにいるといけそうな気がしてくるでしょう。」と小高い丘の上にある建物から夕陽が反射した高層ビル群を眺めながら励まされました。まるでドラマに出てくるような絵面でした。

最後は「頑張りが足りな過ぎる、お前なんてクビだ」と、周囲が言いすぎではと諌めに入るほど、ひさしぶりにめちゃくちゃ怒られました。
その後も全力を尽くせと個別に怒られました。

それが、最後の会話となりました。

本人にそのつもりはなかったと思いますが、結果的にこの最後のやり取りを胸に自分は生きることとなります。

勝負所以外では怠けてしまいがちな自分に常に全力を尽くさせるためでしょうか。
最後の最後まで戦略的です。
そして最後の最後まで強気で、一切周囲に弱音など吐くことのない、攻めきった人生だったと思います。

あなたがこれまで関わってきた、特に若い世代が早くも芽を出し始めていますし、それぞれが活躍し始めた結果、有機的なつながりが生まれつつあります。
そして著書を読んで感銘を受けた方々も、それぞれの場所で社会に貢献してくれるはずです。

でも、まだちょっと信じられなくて。

もしかしたらSkypeをつなげば「どうもどうも」と返事が返ってくるんじゃないかと、思ってしまいます。
葬儀で直接顔を見ても、先週もらったはずの課題の締め切りは来週月曜のはずですが、どこに送ればいいのでしょうか、Slackでいいですか?と聞いたら「ええ、お願いします」とパッと目を開いて返事を返してきそうで、未だに実感がわきませんでした。
徐々に徐々に、実感がわいてくるのかなと思います。

詰められて泣いたことは一度もないのに、最後の最後、堰を切ったように涙が流れました。

「こんなところで何をしているんですか、早く帰って宿題をやりなさい!do your homework!」と怒られてしまうことは間違いないですが、今日ばかりは許してほしいです。

14年ですよ。

14年も一緒にいたんです。

この会社が何もない時から、ずっと一緒に叱咤激励されて伴走してもらっていたんです。

大学3年生の終わりから14年半、行動を共にしてきました。
ベンチマークしてきた人がいなくなってしまったので、これからどこを見たらいいか、正直わからないです。これまで、特にこの4年間は深くトレースしてきた思考の数々の積み重ねを振り返りながら、意思決定し続けるしかないですね。

もう少ししたら他に一緒にやれるかな、やってみたいですねと言っていたことがあるのですが、どうしたらいいのでしょうか。わかりません。

本当にお世話になりました。色々怒りたくなること、口出ししたくなること出てくると思います。少し先になると思いますが、あとでたくさん聞きますし、たくさん謝るので許してください。
これからは、ゆっくり見ていてください。
ひとまずは言われた通り、全力を尽くします。

心からのご冥福をお祈り申し上げます。

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