見出し画像

ACIMワークブック Lesson345

本日のレッスン

私は今日、奇跡だけを与える。奇跡が私のもとに戻ってきて欲しいからである。

本日の気付きと学びのシェア

本日のレッスンを読んで、次のレッスンが頭をよぎりました。
レッスン68の「愛は不満を抱かない」、です。

レッスン68「愛は不満を抱かない」
不満は愛を攻撃し、その光を見えにくいものとし続ける。私が不満を抱いているなら、私は愛を攻撃している。

ヘレン・シャックマン. 奇跡講座 下巻 (p.806). 中央アート出版社. Kindle 版.

奇跡を与える者(ヒーラー)になる為に、私はまず自分が癒されている必要があると考えていた。

それは、とある親友からから言われた言葉だった。「人を癒す前に、まずは君自身を癒した方がいいんじゃない?」と。

確かに、私はまだ癒されていない。愛を与えることも、受け取ることも苦しい。そんな者が、人を癒すことなど出来ようか。

明らかに愛を与えられている筈なのに、それを攻撃として捉えているのだ。

誰にでもこのような経験はないだろうか。
「ありがとう」と言われ、素直に受け止められない。
「ごめんね」と言われ、心から許すことが出来ない。

奇跡はそこにあるのに、それを正しく知覚できずに、逆に攻撃で返してしまう。

そんな自分は癒されておらず、よって癒すことも出来ない。
そう考えていました。


しかし、ヒーリング(愛や奇跡)の源を知れば、答えは自ずと明らかになる。即ち、神が愛そのものである。よって、ヒーリングとは神の愛を証しているに過ぎず、私がそれを行っているわけでは無い。

確かに肉体のレベルでは、それはわたしを通して行われているように見える。だが、私自身が人を癒すわけでは無い。よって、私は癒されている必要はないと言える。

もちろん、この世界の出会いは、例えばカウンセラーとクライアントであれ、神の教師とその生徒であれ、分離の象徴である肉体同士での出会いである。

肉体であるということ自体が、分離を信じている証である。故に、この世界に存在しているように見える者は、誰一人として完全に癒されていないのだ。よって、癒しは双方に必要なものである。

この事を踏まえると、癒されることを待ってから人を癒すことを考えていたら、その時は永遠に来ない。ちなみに、これが自我の目的である。癒しとは、自我の消滅を意味するからである。陰に光が差し込めば、影はもともと存在していなかったかのよう、自我は愛に照らされれば消滅する。よって、自我はそれを永遠に先延ばしにし、その機会を私から奪うのだろう。

では、どうすれば人を癒せるか。

私自身を受け入れることだ。
肉体としてのわたしではない。何十年も生きてきて、強固にしてきた戸籍上のアイデンティティではない。ありのままの、防衛を必要としない、完全に無罪性な自分を受け入れるのだ。

もう、愛と奇跡を遅らせることはもう辞めよう。

それは、私自身を受け入れると同時に、兄弟のありのままを受け入れるということに他ならないのだから。どうか、私がこの肉体をあなたの奇跡の道具として使っていただくことを受け入れることが出来ますように。


いつもにも増して、うわぁ…となりそうな記事を書きました笑

でもいいですよね。noteさん。
誰にでも自由に表現できるこの場を与えてくれて、ありがとう(*‘ω‘ *)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?