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ACIMワークブック Lesson343

本日のレッスン

神の慈悲と平安を見つけるために、私は犠牲を求められていない

本日の気付きと学びのシェア

本日の学びをシェアする前に…

今日、「あなたの記事は読まれています!」
というnoteからの励ましのメッセージが届きました😂

今日までに数件記事をあげているけど、スキを頂いたことは無く…
その事実に「こいつ、挫けて辞めちゃうんじゃないか…」とnoteは
危惧してくれているのかもしれませんね。

でも、大丈夫!超マニアックで、ヤバい記事をあげている自覚はあるから!
むしろ、そんなこと言われたら逆に虚しくなるからやめて笑

さて、そんな学びにも気付きにもならない話題。
閑話休題


本日の主題概念ですが、人は真の幸福を得るためには犠牲が必要だと信じています。

その例が「悟り」です。

人は「悟り」に至るという事を、欲求や煩悩をすべて捨てた状態のようにとらえているように感じます。

なぜ、そのように感じているかというと、わたしがそう信じているためです笑

ちなみに、ここでいう「信じている」というのは無意識のレベルでです。
頭では別の理解をしているつもりですが、無意識のレベルで信じていると、自分ではどうしようもありません。

では、なぜ人は「悟り」(または神の慈悲と平安)を開くことが犠牲だと捉えているのでしょう。

それは、私(この自我)には特別な役割がある、と信じたいからです。
別の言い方をすると、分離の概念を信じたいためです。

この表現だと、は?と思われてしまうかもしれませんね…。
でも、ACIMのワークブックを読んでいると、その概念がよく理解できるようになります。

私の言葉ではうまく説明することも出来ないので、変に捻じ曲げて説明することは控えておきます。
(将来、理解が深まれば私もちゃんと表現できるようになりたいです)


今日も、いつもと変わらない普通の一日を過ごしました。

妻がお仕事だったので、娘と近場の大きな滑り台がある公園に行き、
Googleマップでは「営業中」の表示がされていたにも関わらず、
しかし、実際は降雪により締まっていました。

その後は、娘の要望に従い、近場の牧場にポニーと羊を見に行きました。

その後も、ブラウンスイスのホットミルクを飲んだり、寒い中二人でおにぎりとフランクフルトを食べたり。

「幸せ」、そのものでした。


一方で、頭のなかはいつも通りごちゃごちゃと雑念が湧いて、

まるで掛け替えのない絵画を上からバケツ一杯のインクで汚して、

光を見えなくしているようで…


自分はいまだに、内なる光を隠していたいだ。


その光を見ることは、とんでもない犠牲を要求するのでは、と信じているから。そして、その恐れから目を背ける為に、わたしは雑念を抱き続ける。

こうすれば、もっと良くなるのに。
ああすれば、もっと良かったのでは。
こうだから、こんなにいらいらするんだ。
あの人はなぜ、なぜあんなことをしたんだろう。

あーーー、もう!



今日、再び逡巡することがありませんように。

すべてのものを、あるがままのものとして受け入れることが出来ますように。

私が、あなたの子であるということを思い出せますように。

あなたが創造したままの光の中で、どうか幻想を忘れ去ることが出来ますように。



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