山月記

文学国語のレポートで「山月記」が
題になっていまして、初めて読みましたが
難しい言葉が多いものの
読むととても面白くてびっくりしました。

昔の文豪の言葉の方がハッとするのは
何故なんでしょう。
人生というもの、生というものに対する考えをしっかり自分で持っている人達が多いように思えて好きです。

さて、この作品いいなあと思った言葉がいくつかありまして、まず

「無我夢中で駆けていくうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を掴んで走っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を、飛び越えていった。気がつくと、手先や肘のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、すでに虎となっていた。」

良いですよね。読んでいてとてもワクワクというかドキドキしました。虎になってゆく過程が素晴らしく、分かりやすく、書かれていて想像しやすいです。そしてこの後自分の姿に驚き、これは夢だと考えた李徴が

「夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかったとき、自分は茫然とした。(省略)全く何事も我々にはわからぬ。理由もわからずに押し付けられたものをおとなしく受け取って、理由もわからず生きてゆくのが我々生き物のさだめだ。」

後半部分なのですが、そうだよなぁ。と思ってしまいました。人生なんてボーッとして自分の意思もなく、周りの流れに流されながら、生きて死んでいくようなものだよな、と。

そして李徴がいつも、「自分の気持ちは誰にも分からない、分かってくれるものはいない」と言っていて、これも寂しいけれど共感できるなあと思いました。

この後李徴は兎を食い殺し、人間の心で抗いながらも、獣としての欲望に負けてを繰り返し、気がつくと、どうして以前人間だったのかと考えだしていて怖くなります。ここで李徴は言います。

「俺の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、おそらく、そのほうが、おれはしあわせに慣れるだろう。だのに、俺の中の人間は、そのことを、このうえなく恐ろしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!俺が人間だった記憶のなくなることを。」

これは、人間だった頃の苦痛を知っているからこそ、虎として生きることの楽さを感じながらも、人間として生きること、人間として生きてきた記憶の素晴らしさも知っているから苦悩する、というシーンだと思うのですが、ここを読んで面白いなあ、中島敦は凄いなあと、とても感心して感動しました。私も突然虎になってしまえば、まったく同じことを考えるだろうと思ったからです。

ギクっとした言葉もありまして、

「俺は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、俺は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。ともに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦礫に伍することもできなかった。」

「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とがおれのすべてだったのだ。俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩人となった者がいくらでもいるのだ。」

これは創作をする者、したいと思う者、全てに突き刺さる言葉ではないですか?私は言われたな、と思いました。本当にこの言葉のとうりで読んでいて苦しかったです。

私はいつも漫画を描くのを遠回しにしていて、漫画を描きたいのではなく、漫画家になりたいのだと気付いた時の自分に対する、気持ちの悪い嫌悪感。でもそこを超えて漫画を描ききれば、自分のことを少しは認めてあげられるのではないか。と思いながら、また先延ばしにしているのでどうしようもないのです。
そろそろ高校3年生になります。漫画を描き切って投稿しなければ、私の未来は終わります。頑張らないと、このまま頑張ることなく死んでしまう。

山月記を読んでかなり頑張ろうと思いました。
読んだ後に抱く感情がズレているかもしれませんが、私はこのままではダメだと思えました。

最後に、
李徴が「おらの毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。」と言った言葉。とても、心に響くものがありました

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