エル・カンターレに出会って
『新時代の道徳を考える』
道徳とは、「道の徳」と書きますが、「人間として生きる道」を説いているものであろうし、「その道に則って生きていけば、人間としての徳が生じる」と言う考えでもあるでしょう。
道徳そのものは必ずしも罰則を伴っているものではないし、強制力を伴うものではありません。あくまでも、「人を、よい方向に感化していこうとしているものではないか」と私は思っています。
徳川末期などに繁栄していた各種さまざまな塾は、知育としての知識も教えていましたが、同時に、「道徳」というべきものというか、「人間の生きるべき道」、「人類の道」のようなものも教えていました。つまり、「人間として、こういう場合にどう考えるべきか、どう考えるのが正しいかということについて、考える材料なり、ヒントなりを与える」という教育の仕方があるわけです。
昔の漢学の塾であれば、儒教の『論語』をはじめとする、孔子のさまざまな教えを教えていましたが、単に、漢文を読む技術を教えるだけでもなく、「知識として暗記しなさい」というだけでもありませんでした。やはり、「それをもとに、人間として、大人になってから生きる道を考える」という方針があったと思うのです。
夏目漱石自身も、幼少期に学んだ漢籍には、「人間の生きる道」や「正義とは何か」というものでしたが、英文学では、「社会の世相を反映したもの、あるいは個人主義的な生き方や面白い人生について表現したものが文学的価値がある」というような考え方なため、壁にぶつかったようです。
「学問の『学』『学ぶ』という字は、『まねぶ』から来ている」とよく言われているように、まねをしてもよいものを繰り返し覚えて理解することが、人間の生きる道をつくっていくわけです。
人生のさまざまな局面で、どう判断したらよいのかということに対する材料にもなります。