眼鏡と帽子

 エヌ氏は何もない部屋に一人座っていた。頭には奇抜な形の帽子と眼鏡が。どちらも妙にごてごてとしている。

 ある種のファッション。そう呼んでも差し支えないだろう。それも随分前からだ。今や文字通り老若男女が四六時中その格好だった。

 簡素な部屋でエヌ氏はおもむろに声をあげた。

 「やあ君か」

 高層マンションのオートロック扉の前にはぴったりとした服に身を包んだ女性が立っていた。

 「今日は話があってきたのよ」

 「なんだ話なんて。君らしくないな」

 身構えた様子の女性に対し、エヌ氏はあくまでもフランクに言い放ちソファの隣を鷹揚な手ぶりで示した。

 「真面目な話よ」

 ローテーブルからグラスを取り上げ、しげしげと眺めつつ女が言う。エヌ氏はさりげなく肩に手を回し、薄暗い部屋に香水が匂った。

 「ねぇ」

 女性は手にしたグラスに手を付けることなくテーブルに戻し、言った。

 「ねえ責任取ってよね」

 エヌ氏は分からなかった。女が何を言っているか。いや本当は分かっていたはずだ。一瞬の判断で受容を拒絶したのだ。きちんと受け止めることもできたろうに。ひとたびその姿勢をとってしまうともはや引っ込みはつかない。

 女をどうやって帰したのかそれすらも覚えぬまま、気づけばエヌ氏はひとりワインを呷っていた。隣のグラスはなみなみと光を湛えたままだった。

 それからというもの数日おきに女が訪ねてきた。それは以前と変わって苦い訪問となった。

「責任取って」

 そう言う女を玄関で追い返すこともあれば、外聞を気にして部屋に上げることもあった。エヌ氏は小心者だった。

「だってそんなはずはないじゃないか」

「なにがそんなはずない、よ。嘘つき」

「噓つきは君だろ」

「いつまでそんなこと言うつもり」

「だってそんなわけ無いんだから」

 そうした会話が幾度となく繰り返された後、訪問はぱたりと止んだ。

 都合の良いエヌ氏は安心し、次第に忘却し、元の享楽的生活に身を任せた。うまい酒と煙草。他の友人が訪ねてくることもあった。

 ある時、エヌ氏は夜景を見下ろしながら思った。よくもこんな風に人が増えたものだ。はるか眼下を絶え間なく光の筋が流れていく。こんな調子では今に地球もいっぱいになってしまうだろう。

 いや、と思い直す。そんな心配はいらないのだった。空間の拡張はいくらでも可能なのだから。人類が仮想空間に住みだしてもう何年だろうか。現実世界の記憶が無いのは勿論、それがどのようなものだったのかという話すらも聞かない。

 ふと、身に覚えのある違和感がエヌ氏を襲う。そんなわけないじゃないかという言葉が頭の中に響いた。刹那、冷たい呼び鈴が鳴って、急いで開けた扉の前にはあの女性が立っていて、腕に抱いた赤んぼうと同じガラス玉のような目でエヌ氏を見つめる。

 「そんなわけないじゃないか。」口の端から漏れ出た自分の声がよそよそしかった。「そんなわけが無いんだ。」エヌ氏は思わず後ずさっている。「そんなわけないはずなのに。」そのまま倒れこむように手をつき、這うように床を進んだ。どうしても体が震えていた。

 誰もかれも仮想空間に住まう今、その子が生まれるはずがないじゃないか。だが、それなら、俺は、俺たちはいったいどこから……。エヌ氏は体の内側から崩れていくような奇妙な感覚に、思わず目を閉じた。   〈終〉
 

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