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沼かと思ったら水深1.2Mのプールだった

私は、つい最近まで、正確に言うと水曜日まで、まあまあ熱心なヅカファンだった。
まあまあ熱心と言ったのは、不熱心でないことは確実だが、熱心とは言えないから。熱心なファンは、ファンクラブに入り、手紙を書き、毎日のように劇場に足を運ぶ。それに比べれば、私は熱心とは言えない。

私のファンの程度は、配信も数に入れれば、基本、全組観劇派で、劇場に足を運ぶのは月、雪、星(ときどき花)で、そのうち贔屓の公演は2回観劇、毎朝7時からスカステ(宝塚専門のCSチャンネル)を観て、時間が許す限りDVDを見て、それ以外はCDを聞いているという状態。歌劇とグラフは定期購読しており、部屋は贔屓の写真でいっぱいである。
頭の中は常にヅカ(主に贔屓と贔屓の組について)。X(旧Twitter)に流れて来る情報もヅカばかり。贔屓ネタであれば、3時間は軽く喋り倒せる自信があって、できればキャトルレーヴに務めて、毎日ヅカ関連のグッズを紫のPP袋で梱包していたかった。そう思っていた。

こんなに贔屓のことばかり考えていて、いずれ贔屓が退団したら私はどうなってしまうのか。ヅカファンになるのは人生で三度目の私だが、贔屓退団後の私の姿はとても想像できない。一度目にファンになったのは小学校高学年~中学時代、二度目は大学生~院生時代、そして三度目が今回となる。でも、こんなに入れ込んだのは初めてではないかと思うし、家族もそう証言している。
どうしよう、贔屓が退団したら、廃人になってしまう!
そのように、私自身も家族も心配していた。

ところが、私がファンを卒業する日は思ったよりも早く来た。
それが水曜日。洗面所とトイレのカレンダーにも大きく書き込んでいたその日。私は、オシャレをして、気合を入れて、もの凄く楽しみにしながら劇場に行った。
そこで、ちょっとした事件があった。

私の隣の二席が空席だったので、私はそこに移動した。
この行動については、意見が色々あると思う。
たとえ隣が空席でも、自分のチケットの座席から移動すべきではなく、それがルールだと言う人もいるだろう。
ただ、私は、パリでバレエを観た時に、そこの観客から空席があれば移動してもいいと教わり、実際に移動して観たし、日本でもオペラ観劇では空席に移動して良いルールだとオペラ専攻の教師に教わり実際にそうした。
そして、宝塚の公演でも、今月の初めに行った際に、空席に移動して最後まで観劇して帰った人を見ている。私は、それがルール違反だとは思わない。

ところで、この日、私が移動したことについて、誰か(おそらく後ろの席で過去のジェンヌについて大きな声で「顔が悪いから好きじゃない」と悪口を言っていた四人組)が劇場にクレームをいれ、私は放送で注意された上に、劇場係員にチケットを見せるように詰問された。
その時の係員の、私を責める口調と表情が、今でも、忘れられない。

その後で観た舞台は、素晴らしかったけれど、もうのめり込めるものではなかった。
私は、迷惑な客として強く拒絶された気がした。誰よりも、舞台から遠くに。
私は、必死に、気持ちを切り替え、舞台に集中しようとした。
その時、急に、分かった。ああ、そうか。これは仕事なんだと。
仕事だから、クレームが出れば、私に厳しく注意する。それは、彼らにとって当然なんだ。
だから私は、ショックを受け過ぎちゃいけない。これは普通のこと。通常営業。

もちろん、舞台が仕事であることは、もとから分かっている。そんなことは知っている。
けれど。
私は舞台の上で歌う贔屓を見つめた。そして、胸がいっぱいになるより前に、ああ、素晴らしい仕事をしていると思った。
ディズニーランドで会うキャラクターにでさえ、そんな感情を抱いたことはない。
着ぐるみを着ていても、彼らはそのキャラクターそのものだから。けれど。
彼女の姿はどこまでも遠く(座席は良かったが)、私の体は冷えていた。
魔法は解け、夢の中へは戻れなかった。

劇場で私に起きた事は、そんなに大したことじゃない。なんだ、そんな事くらい、と何度も自分に言い聞かせた。気にすることじゃないと、何度もそう考えた。
けれど、私にとって、あの出来事はトリガーだった。

しばらくして、私は部屋にある写真を剥がし、スカステを解約し、情報の流れを断ち、次回の観劇もキャンセルする予定でいる。もう十分楽しませてもらったから。

気分のいい体験ではなかったけれど、彼女の退団より前に、私が卒業できたことにほっとしている自分もいる。少なくとも何か月も嘆き悲しむような目には合わずに済む。

私のように何かに夢中になることを沼にハマるという。
私は、底のない深い沼にハマっていると思っていた。
けれど、本当は水深1.2Mの遊泳用プールだった。
立ち上がってみると、底があり、足が着いて、胸から上は水から出ていた。呼吸は楽で、落ち着いていた。私はゆっくりとプールを歩いて渡り、はしごを登ってプールから上がった。

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