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『 制作 』 .6 「 自分の中の羅針盤 」


誰でも多かれ少なかれ様々な岐路に立たされ、右に行くか左に行くか、どちらの道へ進むかの選択を迫られた経験があることと思います。
その様な時、一体自分の中の何がそれを決定しているのでしょうか?
それを『 自分の中の羅針盤 』と呼んでみたいと思います。

私は制作して行く中で、一時期 現代の美術の流れというものを少しでも知っておいた方がいいのではないかとも思い、現代美術の展覧会に行ったり本屋に行った時には現代美術を紹介している美術雑誌を見るようにしていたものですが、しかし現代美術を見ているとどうもなんだか嫌なものが体に入ってくるような気がして、気持ちが沈み、暗い気分になってしまい、気分転換に古造形『 西洋の中世以前の造形物、日本の明治時代以前の造形作品、その他全時代の民衆工芸(建築から家具調度品、食器、古道具.等)』が載っている雑誌を見て気分を持ち直して帰って来るような事を繰り返していましたが、そのうちに 何でこんな事をしているんだろうと空しくなり、もうそれ以降 現代美術とはあまり関わらなくなって行きました。現代美術が良いとか悪いとか言う前に、どうも私は思想的なものや、末端神経的なもの、病的なものが生理的に苦手で、体が拒否反応を示すようです。もちろん現代美術がすべてそのようなものでは無い事は分かっていますし、現代美術でも好きな作品は好きなので、これはあくまで私の漠然とした印象に過ぎませんが. . . . 。
それ以降は接するものは世界中のすべての古造形といういう事になって行きました。古造形に接していると、何となく気分的に楽しく、明るく、体に幸福的なものが入って来るような気がするのです。そしてその様なものをより強く、多く、大きく与えてくれるものが自分にとって良いものであり、正しいものであると言う認識になって行きました。
(この物の正体が分かるまでにはまだもう少し時間が必要でした。この事については以前に書いた記事、『民藝 私観』を読んでいただけたら幸いです。)
一見 幼稚に聞こえますが、この様な自分の中の単純な判断基準、選択基準こそが自分の中では絶対的な基準になって行ったように思います。

もうひとつ自分でも興味深いのは、自分の方向性や、表現法などを試行錯誤している中で、よしこれだと!と思って始めたものが、それが本当の自分の要求と違っていた場合、そのうちに段々と虚しくなり、やる気がなくなって来て、そうなって初めて、ああこれとは違うのか、と気付かされる事が良くありました。どうも表面的な意識とは別の、自分の中の本来の要求が正しい判断をしてくれると思ったものです。

自分の中のこのような感受体、感受力が自分の中の羅針盤になっているようです。
そして今までのところ、これが間違った事が無いようで、絶大に信頼しているものです。



しかし、こんな単純なものに落着するにも中々に長い試行錯誤の繰り返しが必要でした。日々絶えず自分の中の本当の要求かどうかを点検していかねばなりません。
この点に関して、洋画家の坂本繁二郎氏は「画の質」という論の中で言い尽くしてくれています。少し長いのですが、自分のものを創ろうとする人にとって大変為になると思い紹介したいと思います。

 質は内にあって其のある度合いに随って大きく小さく燃えて居る筈である。常に外に向かって發火し様として居る筈である。只希望丈に畫が描き度い向上仕度いとは誰でも云い得る、しかし自分の腹の底の質の希望についてよく聞いて見ると、口先丈けの希望よりもずっと真面目な希望の聲が聞かるる筈である、(中略)
常に耳を傾けて居ねばならぬのは此の本質の叫べる希望であり、發動力でなければならぬ。此の事は今更持出す迄もないけれ共、世の中が複雑になるに随って色々な方面からの間違った欲望が頭を持上げる、いつの間にか此の問題がお留守にされる、すべて風潮に乗せられたりもみくちゃにされたりするのは此の本質の叫びの曇りから起こる自業自得の罪であろう。 (中略)
そして何れ丈けかの質は誰しも持って居るだろうし、従って其各質それぞれ相應丈けの事は大なれ小なれ真性の畫が描け得られねばならぬわけであるのに、其れが描けないと云うのは何かつまらぬ雑念に目が暗んで居るのだと思わねばならぬ。だから畫の真髄などと云う様なものは、或る特種の人にのみ出来ると云うわけではなく誰にでも出来得る。質の何れ丈けかは與えられてある、只其質が自覚されるかされないかであり、其質を如何に育て如何に取扱ふかが其人の進行に大きな關係が起こる。(中略)質が大きなものであれば元よりの事であるが、例え小さい質であっても自質を體得し其質より起こる聲を純に發するならば、質は小さくとも質のいい畫が其處に現れるに相違ない。或種の人の云う様に、繪の真などと云うものが何か特種の深い、高い、遠いところに横たはってでも居る様には思えない、真と云う様な感じの境地只其事丈けならば極めて平凡な何處にでもあるものとしか思えない。

坂本繁二郎.(1970).『坂本繁二郎文集』「畫の質」.pp103〜6.中央公論社.


ちょっと読むと何か難しそうに思えるのですが、実は誰でもやっている事だと思います。例えば自分の部屋の壁に何かを飾ろうと思う時、何を飾るか?何処に飾るか?複数の場合どの様な配置にするか?それらの事を誰でも考えるでしょう。その時に何がそれを決定するかの問題です。当然それは自分の好きな物、飾りたい物を自分の気持ちにしっくり収まる様に配置する事でしょう。しかしそれが自分の中の要求と違ったものになっていたら何となく違和感を感じ、何やら落ち着かないのではないでしょうか?それを感じ試行錯誤しながらも最後に「これだ、これで良い」と納得するものこそ坂本繁二郎氏の言うところの自分の中の「自質の声」の極小単位ではないかと思っているのです。

ですから私の若い時からの自分の制作の方向性、針路など、また自分の学ぶべきもの、親しむべき世界なども すべてはこの「自分の中の羅針盤」に従って来た結果です。そしてこれが不思議と間違える事なく、これまで素晴らしい物に出会い(古造型)、素晴らしい世界(民藝、禅)に出会う事が出来たように思います。これが自分の絶大に信頼しているものなのです。



この様な試行錯誤の中で さらに具体的なものとして、良いかどうかの判断として「腑に落ちる」と言う言葉を特に大事に考えています。自分の腑に落ちるかどうか、これが自分にとって正しいかどうかの基準になります。腑と言うからには頭で考える程度の事では無い事がわかります。調べてみると「頭だけではなく、身体全体で深く納得できたという感情」と言う素晴らしい答えが出て来ました。身体全体という これがとても東洋的で実感のある深い言葉だと思います。
身体全体で納得するなどと聞くと、何となく分かった気になってしまうのですが、良く考えると不思議な表現だと思います。頭で考えるーなどと言うのは誰でも分かりますが、身体全体で納得するとはどう言う事なのでしょうか?
個人的には、例えば自分のもの、自分の方向性、自分の本当に好きなもの、本当に良いと思うもの、などをこうだろうか?ああだろうか?などと、考えて考えて考え尽くした後に自然と生じて来る「これだ」「これで良いんだ」という実感、納得感だと思うのです。以前「禅」の所で書いた「自ずと然り(おのずとしかり)」の場です。
そしてこれが今でも刑事ドラマなどに頻繁に使われている事などを見ても、誰にでも分かる、理解できる実感を伴う言葉として残っている事がありがたいと思います。

そしてもう一つ自分の大事にしているものとして、それが自分にとって「しっくりくる」かどうかという判断基準です。これも誰にでも分かりやすい言葉ですよね。これが良し悪しの選択、判断の基準になります。つまり坂本繁二郎氏の言う
「自質の声」に叶うかどうかと言う事です。簡単で単純な言葉ですが、極めて有効な判断材料になります。

「腑に落ちる」、「しっくりくる」、この二つが「自分の中の羅針盤」です。そして坂本繁二郎氏の言っている様に、「自質の声」を自覚し、育て、如何に取り扱うか、この事を絶えず自分自身に問い続けなければなりません。しかしながら毎日こんな点検を長いこと続けて行くと、このような判断は自然と身について来るもので、何か自然と自分の気持ちの深いところにストンと納まるかどうかという価値基準に落ち着いて来るようです。そしてこれまでやって来て不思議と間違えた事が無い、自分が絶大の信頼を置いているものなのです。



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