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オゾンを含んだ一陣の海風を

 花田清輝は、滝沢馬琴についていろいろと熱心に書いている。
馬琴の『椿説弓張月』についてそれが「当時のベスト・セラーの一つにのしあがったのは、鎖国下の息苦しい江戸文学のなかに、オゾンを含んだ一陣の海風をみちびいたからではあるまいか。」*1 と考察しているが、なんてしゃれた言い方をするのだろうかとわたしは感動した。
 また、戦時中「八犬伝」を読んで花田は、「『八犬伝』のなかには、馬琴のもっているいっさいのものが、惜しみなくたたきこまれているような感じをうけた。そのなかには、魔女の大釜のなかをみるように、批評あり、ドラマあり、考証あり、歴史あり、小説ありであって、要するに、それらのすべてのものが、馬琴の心火に熱せられて、いまにもふきこぼれんばかりに、グツグツと煮えたぎっているようにみえた。」と絶賛し、さらに続けて「わたしは、いまでも、その種の作品を、『八犬伝』以外には、『ドン・キホーテ』しか知らない。これらの偉大な作品が、いずれもわれわれの子供時代にダイジェスト版かなんかで読まれたきり、生涯にわたって、二度ととりあげられないきまりになっているのは、われわれの眼が、太陽にたいしてそうであるように、白熱した魂の直視にたえ得ないためであろうか。」*2 と名調子を繰り広げている。
『八犬伝』といえば、私はかつてNHKの人形ドラマを見て、せいぜい勧善懲悪の時代劇くらいの認識しかなかったが、花田は馬琴に、日本のアバンギャルド芸術家を発見してわれわれに示してくれているのである。花田はさらりと「わたしには、『八犬伝』の展開を規定しているものが、道徳よりも、むしろ、美学のような気がしてならないのだ。」(同上p289)と書いている。古臭い江戸時代の読み物に、象徴体系をもつ説話構造を発見して、まったく新しい解釈を提示してくれるこの花田清輝こそ真の批評家の姿なのではないだろうか。一流に向かって慇懃をきわめ、もっぱら「感服」することに決めている小林秀雄のような批評家、(この小林批判も花田によるのだが)そんな人たちとはレベルが違うのである。
*1 花田全集第9巻「為朝図」p280
*2 花田全集第9巻「犬夷評判記」p284



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