部分と全体
小林秀雄の人間の建設(だったっけな)に科学と認知の違いについて記された一節の後味がいいので書いていこうと思う。
対象を知ることと対象の法則や構成を知ることは根本的に異なっていると小林秀雄は云う。
早速だが本題に入っていこう。社会とは一体何か。
社会に貢献する・奉仕するなどの言葉を昨今よく聞くのだが、そもそも社会とは何だろう、そして社会に働きかけることは何を意味するのか。
辞書で引くと
人々の集まり。人々がより集まって共同生活をする形態。また、近代の社会学では、自然的であれ人為的であれ、人間が構成する集団生活の総称として用いる。家族、村落、ギルド、教会、階級、国家、政党、会社などはその主要な形態である。
となっている。人が集えば社会となるのだ。線引きには際限があるようなないような、とにかく人の集まりだ。
英語でいうとsocietyやcommunityとなる。
the people living in one particular area or people who are considered as a unit because of their common interests, social group, or nationality
具体的にはどういうことなのか。
人は他にしがみついて生きている。この高度で繁雑とした現代文明の中の生活を保つためには他の存在に依存するしかない部分が多いのも事実であろう。また、興味関心でつながりあう関係においても仲間らに精神的依存をしてしまっているのもある程度の事実であろう。
身体精神双方においての相互依存によって生まれる相乗効果というものが社会を作り、そして人間の強さを演出するのではないか。
それゆえ、この相乗効果に貢献することがなくなれば人間的強さは崩壊するであろう。
人間はどこへ向かうのだろうか?ここで答えを出すつもりは毛頭ない。しかし少し考えてみようと思う。
よく議論に出るものとして幸せや幸福の状態を目指すべきである、というものがある。しかし幸福の状態が如何なるものかは個人の経験に委ねるのみだろう。私自身はこの状態を知っているつもりだ。
個人的には感謝の感覚がそうであると考えている。感謝と言っても相互交換的な物を指すのではなく、統合感を示す物だと思う。一つの統合された存在のうちに存在する自己を意識することで生まれる感情だと思う。
遠藤周作の「沈黙」で
罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れること。
と書いていたことを思い出した。
文脈は忘れてしまったが、相互依存という人間の繁栄の立役者の存在を意識せずに生きることは、利己的行動にもつながってしまい、反社会的、つまり他者との共通資源や利益の存在を軽視し損なうことに発展しかねない、こう読めると思う。
この相互依存を意識せずに社会と付き合ってしまうことが「罪」である。こう考えると罪深い人間だな、と思う。悔い改めます。
吉本伊信の考案した「内観法」もここに緩く関わってくるかもしれない。自他との関係を思い返し、肯定的な関係を構築する。そうすることであらゆる精神的な向上が観察できる。
感謝というものも社会に属する人間にとって大切なのだろう。
社会って結局何なんだろう。
依存と感謝。
対象を知ることと対象の法則や構成を知ることは根本的に異なっている。
最後に小林秀雄を考えよう。
社会の構成員である人。人を知ることで社会を理解できるか、できない。社会を知ることで人を理解できるか、できない。法則で人と社会を理解できるか、できない。
シンプルに個人の集まりが社会であるわけではない。集うことで力が増幅される。あらゆるものを圧倒する力がある。その力をどこへ向かわせるべきなのか。
最後に、社会に奉仕するとは何に奉仕するのか。
お互いに依存しまくって、感謝しあうことなのかもしれない。
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