#2 気まぐれ連載

夜明け前の宇田川カフェは、始発待ちの若者やサラリーマンでごった返していた。薄暗い明かりの下、酔っている人間はけらけら笑いながら同じ話を繰り返し、酔いが覚めた人間は虚ろな目でぼそぼそ呟くか、テーブルに突っ伏して眠っていた。

「ねぇ、それでカズキの家行ったの?」「うーん」「言いなよ、今言わないと取り返しつかなくなるよ」「うーん、まぁ、そうだね、行った」「マジなんだ」「泥沼だこりゃ」「たぶんユウに死ぬまで恨まれるよ」「でも家上げたのカズキだから」

隣の男女グループが色恋沙汰で盛り上がる光景を横目に、葵は口を開いた。
「名前が無くなったら、あなた今の人格保てると思う?」
そう言って冷めきったコーヒーカップを口につけると、切れ長の瞳と筋の通った鼻は、より強調されて彫刻のように静的な美しさを持ち始めた。

「うん」
何も聞き取れなかった僕は相槌を打ち、ただぼんやりとその光景を眺めていた。


彼女は僕を睨んだので、僕は笑みで返した。


背後から、数人の男の声が聞こえた。
「お、めっちゃいい女」
「目の前で言うなや」
「平気や、あんな弱っちいのかかってこんわ」
「お前ほんと性格わりーな」
「俺あぁいうの好みじゃないわ」
「ロリコンだしな」
「ぶっ飛ばすぞ」


そんな笑い混じりの声が少しずつ遠くなって消えた後、僕は漸く口を開いた。
「ごめん、なんて?」
「名前が無くなったら、自分の人格保てるかって」
彼女はそう言いながら、退屈そうに男たちの背中を見送った。
「僕たち今まで何について話した?」
「ダージリン急行」
「ダージリン急行と、その話は関連あるの」
「ない」
「ないと舵が壊れる」
「ダージリン急行に舵はない」
「そういう意味じゃない」
「ちょっと考えてみてよ」
僕は頷きながら、ナプキンに唇のやけに腫れたオーウェン・ウィルソンを描いてみた。すると彼女の目つきは禿鷲みたいにきつくなったので、錆びついた頭をどうにか回してみた。

自分から名前が消え去ったのなら、自分はなんと呼ばれるのだろう。履歴書の氏名欄に何を書くのだろう。そもそも名前がないのは自分だけという設定なのだろうか。人間が互いに名前をつけない可能性はあるのだろうか。そこに言葉という概念は存在するのだろうか。

そのまま眠りそうになったので、当たり障りのない回答をしてみた。
「分からない。でも保てる自信はないかな」
すると、彼女は僕の目をじっと見つめた。その深いブラウンの瞳に、まるで何かを見透かされたような気分になった。
「どうせ考えるのが面倒になったんでしょ」
「よくお分かりで」
「あきれた」
彼女は本当に嫌そうにため息を吐くもんだから、僕はつい楽しくなって謝った。
「謝る気がないのに謝らない」
「君は謝らなさすぎだけどね」
「どうしたらこんな人間になるんだか」
彼女は顎を掌に乗せると、ウェイターにコーヒーのおかわりを注文した。


葵は時折こういった曖昧な話をした。でもその意図は話さなかったし、僕も聞かなかった。きっと明確な言葉には表せない“何か”を、少しずつ吐き出していたのだろう。

知人が子供を授かる度に、当時の、この会話を思い出す。

名前は人の看板、アイデンティティを構築する上で根幹となるものだ。
親は子の名前を決める。決めなければならない。何せ名前がなければまともに呼ぶ事すらできないから。
でも、まだ呼吸すらしていない存在のアイデンティティを他人が作るというは、案外不思議な現象だ。ましてや、その名前に他人の期待や願望が組み込まれているとなると、それは時として厄介を伴う。


彼女の旧名が愛美と知ったのは随分後になってからだ。
その名前を、当時の両親は純粋な思いで腹の子につけたのだろう。美しく、誰からも愛される、愛に溢れる人になって欲しい。そんな願いだろうか。

その数ヶ月後、愛美は杉並の古いアパートのトイレで、孤独な母に産み落とされた。その小さな部屋にはどんな感情が満ちていたのだろうか。

その数年後、愛美は多くの人間から美しいと褒められる存在になった。多くの人間が彼女のために奔走した。それでも彼女は愛を見出せなかった、見出す気が無かったのかもしれない。

愛美は16のとき、自分に葵という名前をつけた。それは誰かの身勝手な願いではなく、彼女自身の切実な思いだった。

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