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凛として灯る

【動機を知るには、歩んだ人生を知る必要がある】
「モナ・リザ」にスプレーを噴射した、米津知子。女として、障害者として、差別の被害と加害の狭間を彷徨った、ウーマン・リブ活動家の足跡。著者は書く。
<冷静かつ淡々と、しかし揺るぎない信念のこもった語り口に、私は凛として灯るような情念を感じました。(中略)人には、人生を語ることでしか語り得ない動機や理由があるはずです。ならば、その生の足跡を分析したり解釈したりするのではなく、無数の経験のつらなりとして語る必要があるのではないか。そうした語りに相応しい文体を模索しました>と。
 
【私を見て】
リブ合宿で、<私のスローガンは「清く、貧しく美しい身障者のイメージ粉砕」ということです>と語り、次のように書いたビラを撒く。
≪私からあなたへのメッセージ。私を見て! もっとよーく見て。横目じゃなくて、前から上から下から! あなたと違うでしょう。目をそらさないで! 醜い? みっともない? なぜ醜いと思うの! 何の病気だろう? 交通事故? いつからあんなになったのだろう? 私はあんなじゃなくてよかった! いつも痛いのかしら、うちの子があんなになったらどうしよう。きもち悪い! 見たくない! どういうつもりあの人!≫。
 
直截に訴える言葉の力強さ!
 
【障害者は、人々を不快にさせない程度に憐れで惨めな存在でなければならない】
<知子は幼少期から、ずっとこうした呪縛に囚われてきた。
だが、大学に入り学園闘争を経てウーマン・リブと出会った知子は、こうした呪縛から自分を解き放とうとした。醜い自分には相応しくないという理由で断念していた化粧を取り戻し、GoGoとロックミュージックにあわせて踊ることで、踊ることさえ相応しくないと思っていた>自分の殻を破ろうとした。
だが、それでも知子の心は解放されなかった。障害者は憐れ。障害者は醜い。障害者は惨め。そう決めつけてくる世間の価値観とは闘えても、自分を醜いと思ってしまう自分自身と向き合うことは難しかった。周囲から向けられる好奇の目線はあしらえるようになっても、ショーウインドウに映る自分の姿に思わず目を伏せてしまう自分がいるのだった。
なぜ自分は自分を「醜い」と思うのだろう。この感覚はどこから来るのだろう。
周囲から向けられる冷たい視線に慣れ、いちいち傷つかなくなったとしても、それは解放ではない。ただ、そうした価値観に心が麻痺しただけだ。知子は書く。≪解放とは平気になることとは違うのだ≫。
ならば、自分の心の傷つきを受け止め、自分を「醜い」と決めつけてくる価値観そのものへと怒りの刃を向けねばならない。しかし、自分を「醜い」と感じているのは、周囲の身勝手な人たちだけではない。自分も自分を「醜い」と感じてしまっている。ならば自分も、その刃を受け止めねばならない。
≪私の身体の「醜さ」が私と私を見る人が共に持つ美意識に由来するなら、私が自分の暗闇に目を据えるのも、私を見る人との緊張関係の中でだ≫。
いま誰かの眼に、私が「醜い」ものとして映っているとする。
その人の眼が私を蝕み、私も私を「醜い」と思っているとする。
こうした時、私を「醜い」と見る相手の価値観と、私を「醜い」と思う私の価値観を、共に打ち壊すには、どうしたらよいのだろう。
あの時の知子のやろうとしていたのは、相手の視線を自分に釘付けにし、真っ正面から直視させたまま、自分で自分を壊してみせることだったのかもしれない>。
 
うーん……
 
【連合赤軍事件】
<闘争を目的とした組織の内部で、男と女がどのような力関係に置かれるか。全共闘を経験した女たちは、それを肌感覚で知っていた。実際、永田洋子も事件前、所属する組織内で性暴力の被害に遭っていた。その永田が「総括」というリンチ殺人の口火を切ったのだった。
男たちの運動の中で、女が男に認められようとして男以上にがんばる時、そこには男の運動の醜悪さが凝縮したかたちで現れてしまう。永田洋子は、その最も悲惨な事例だったのかもしれない。
当時の若者たちにとって、連合赤軍のような組織と接点をもつかどうかは、ほとんど運に近いものがあった。たまたま行った集会で手渡されたビラに興味を持った。声をかけてくれた人が構成員だった。こうしたことが入口となり、気づいた時には自分も組織の一員として行動していた、ということもあった。
実際、連合赤軍にいたのは、社会で起きている問題に無関心でいられない真面目な若者たちだった。ほとんどが20代の前半で、ウーマン・リブに生甲斐を見出した女たちと年齢も境遇も近かった>。
 
田中美津は『いのちの女たちへ』で、<男より、より“主体的”に男の革命理論を奉ろうとすれば、女はみな永田洋子だ>。<男に向けて尻尾をふるこの世の女という女はすべて永田洋子なのだ>と書く。
 
【産むか産まぬかは女が決める――優生保護法改悪阻止闘争】
<現代社会は生産性や合理性を追い求める。そうでない者は価値なき者として切り捨てられる。現に重度の心身障害者たちは隔離施設へと排除されている。その排除が出生の段階にまで及んできた。
社会から合理的でない存在として切り捨てられるのは、なにも障害者だけではない。女もそうだ。男中心に作られた社会で、女たちも、ずっと不合理な者、価値の劣る者として扱われてきた。だが、障害者や女を切り捨てる男たちは、本当に合理的で生産的な存在なのか。生産性の論理のもと無限に競い合わされる男たちも、いつ「価値なき者」の烙印を押されるかわからない恐怖を抱えているのではないか。その恐怖を障害者や女に転嫁しているだけではないか>。
<環境汚染や交通戦争などで、現代社会は、いつだれが“健全者”でなくなるかわからない。だとしたら、障害者を生かさない社会は“健全者”も生かさない社会だ。“健全者”もまともに生きられない社会で、障害者がまともに生きられるはずはない。そんな社会で女は子どもを産めるのか。障害者を産めるのか>。
<障害者でも産めるのかという問いには、二つの問題が含まれている。一つは、自分は障害者を受け入れられるのかという道義的あるいは感情的な問い。もう一つは、この社会は今、生まれた障害児と障害児とを産んだ女の双方が安心して生きていける状態にあるのかという社会的な問い。
知子には、ここにもう一つの問いが加わった。障害者である自分は、自分自身の人生を本当に生き切っているのかという内省的な問いだった。
障害者のある自分が、自分の人生を全身全霊で生き切っていない中で、障害児にも安心して生まれてこいと言えるだろうか。知子の問いは深く複雑だった。だからこそ、知子は女と障害者の連携を叫び、共通の敵へと立ち向かう道を模索する>。
<だが、女と障害者の共闘は、想像以上に険しい道のりになった。結論から言えば、「産むか産まないかを選ぶのは女の権利だ」と主張したリブの女たちに対し、障害者団体から「胎児が障害児だった場合、その子を中絶(=子殺し)する権利も女が握るのか」という批判が寄せられたのだった。
女性学や障害学などでは、両者の対立が、生命にかかわる自己決定権の疑問としてしばしば論じられてきた。この対立の中で、両者の狭間で、知子は苦悩することになった>。
 
うーん……
 
【女と障害者の共闘を呼び掛ける】
「青い芝の会」主催の集会で、知子はアピール。
<優生保護法を前にして、女と障害者はどのように連帯できるのか。知子はその接点を“惨め”と“怨み”という感情に見出そうとした>。
<自分は軽度障害者として、重度障害者の痛みがわからずにきた。なんとか“五体満足な人間”になろうとがんばりながら、結局なれずにきた自分がいる。障害者と“五体満足な人間”の間をうろつきながら生きてきた自分は、“非常に惨めったらしい存在”だった。知子は、自分に“惨め”という感覚を押しつけてくるものを見据えようとする。そうすることで、障害者と“五体満足な人間”の接点を探ろうとした>。
<経済至上主義を突き進むこの社会は、“五体満足な人間”を善とする価値観を押しつけてくる。その中で、生産性を上げられない障害者たちは“惨め”な存在にさせられている>。
<だが、“五体満足な人間”は本当に“惨め”な存在ではないのか。経済至上主義が生産性にのみ価値を置くのだとしたら、“五体満足な人間”も、結局は“たかだか労働力の為にしか生存が許されていない”ことになる。だとしたら、だとしたら、彼らも私と同じように“惨めったらしい存在”ではないのか>。
 
うんうん……
 
【リブの魅力】
<もともとウーマン・リブに集った女たちには、全共闘のような男主導の運動に絶望した者たちが多かった。
男主導の運動には、明確な上下関係があった。男が上で、女が下だった。国家権力による「侵略」「搾取」「抑圧」の粉砕を掲げた男たちも、その運動の内部では、女たちを下働き要員と見做していた。
にもかかわらず、男たちは女にも対等に闘争への貢献を求めてきた。デモや集会では、ヘルメットをかぶって身体を張る女が一目置かれた。そうした女を褒めそやす一方、自分たちのガールフレンドには綺麗に着飾った「運動していない女」を選んでいた。
リブという運動は、男たちの「本音と建前」に苛立つところから生まれてきた。だから、リブの女たちは裏表なく「本音」を晒してぶつかることを大事にした。
知子も、そうした「本音」のやりとりに飢えていた。女でありかつ障害者でもある知子は、ずっと、よそよそしく遠ざけられたり、腫れ物のように扱われたりしてきた。家族とも率直な気持ちをぶつけ合うことができなかった。だから、リブのように「本音」を晒し合う関係が新鮮だった。ようやく、自分が生きる場を見つけた思いがしたほどだった。ようやく、自分が生きる場を見つけた思いがしたほどだった>。
 
うん。確かに。そう……。
 
【デモ行進と歩道橋】
リブ新宿センターは「優生保護法の改悪を阻止する1000人集会」を開催。
事務局の知子は管轄の警察署に赴き、デモ行進の申請。その窓口の係官との交渉で、知子は痛恨の判断ミスを。甲州街道を横断する際、横断歩道がないため歩道橋を使う提案に乗ってしまったのだ。
リーダーの田中美津は、当然「車イスをどうするのよ! ベビーカーは!」と激怒。
<優生保護法改悪阻止闘争の中で、知子は、女と障害者の間で揺れ動いていた。そのどちらでもあり、どちらにもなりきれない自分がつらかった。なんとか女と障害者の間をつなぐことができないかと、自分なりに奮闘してきたはずだった。それなりに、自分は、歩道橋を前にして遠回りをさせられる者たちの痛みを想像することができなかった>。
<自分の鈍感さが情けなかった。いっそのこと、このまま消えてしまいたいほどだった。これまでの運動の中で、自分は、女と障害者の痛みに鈍感な者たちをひはんしてきたではないか。人の痛みに鈍感なまま生きることの惨めさをきゅうだんしてきたではないか>。
 
嗚呼……
そして、このことがあったから、あのスプレー事件を志願したのか。
贖罪として……

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