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『民主主義を直観するために』(國分功一郎/晶文社) を読んで

6年前の評論集。なのですが、読み応えあり。
「まえがき」に、
<政治に対してはずっと強い関心を抱いていたけれども、民主主義を自分なりに直観しなければならないと考えたことはほとんどなかった。だが、様々な理由から私は民主主義を直観する必要に迫られた。必要に迫られながら書いたり語ったりしたことがこの中に収められている。だから、もしかしたらそうした素材が他の方々にも役立つかもしれない>と。
2010~2013年の書評、「ブックガイド――2014年の日本を生き延びるための30タイトル」に、山崎亮、村上稔、白井聡各氏との対談も収録。
 
【知性の最高の状態】
<議論で「勝つ」というのはくだらないことである。そして、「勝つ」ために知識を蓄え、議論を組み立てていくのも、くだらないことである。学問というのは真理の探究であると、俺は堅く信じている。真理の探究は「勝つ」ためになされるのではない。「勝つ」ために真理が探究されたとき、つまり、相手を説得し、説き伏せようとして真理が探究されたとき、真理の探究はゆがむ。スピノザの哲学は説得を目指さない――。このテーゼを提示した俺の『スピノザの方法』が述べているのも、そういうことなである>。

うん。この本も読まなければ!
 
【反―享楽的な交渉】
斎藤環『原発依存の精神構造――日本人はなぜ原子力が「好き」なのか』(新潮社)書評。
<「フクシマ」の象徴化への抵抗は、斎藤自身も自らの思想であるとする「脱原発」の運動が、これからどういった方向に向かっていくべきかという問題と切り離せない。斎藤はラカン派らしく「享楽」という言葉でこれを説明してみせる。一般に反対運動というものが何らかの享楽をもたらすことは否定し得ない。何も為すことがない状態に耐えられない人間という存在は、外から課題が与えられることを欲するからである>。
 
まったく、同感! この後もイイ。というか、大事なことを論じています。
<だが斎藤は「“反原発の享楽”におぼれることは、ふとしたはずみで“親原発の享楽”に反転しかねない」と指摘する。もはや事態は、悪者を立てて、それを罵倒することでは到底進まない地点にある。それ故斎藤は、行政や企業との政治的で反―享楽的な「交渉」の必要性を説く。それによってこそ、この運動を我々は維持し、成熟させていくことができるからである>。
 
ということで、この本も読まなくっちゃ。( ..)φメモメモ

【ファスト・フードは情報量が少ない食事、すなわちインフォ・プア・フードと呼ばれるべきであり、スロート・フードは情報量が多い食事、すなわちインフォ・リッチ・フードと呼ばれるべきである】
<どうして哲学者たちは職に就いて語ろうとしなかったのだろうか。この問い掛けはおそらく、性の技法を忘れた、あるいは抑圧してきた西洋思想に対して強い苛立ちを抱いていたフーコーの問い掛けに似ている。権力論を極限まで突き詰めたフーコーは、晩年、それを放棄し、性の技法を含めた倫理学の領域に足を踏み入れた。接触を忌避する美学の伝統にあっては、性もまた考察の対象から外れざるを得ない。我々は社会を社会学的に分析して分かった気になるのではなく、フーコーのように更なる一歩を目指さねばならない。どうしたら各人にインフォ・リッチ・フードを提供される社会が訪れるか。これは正しく倫理=政治的な問題なのだ>。

実のところ、フーコーは長年の課題書。ここらでチャレンジしなければ!
 
【デフレネイティブ】
山崎亮との対談から。
山崎亮:「ナチュラルボーン・デフレ、生まれたときからもうデフレ、本人たちはデフレだと全然思っていない。大人から見て悪い時代こそがスタンダードなんですよね。僕は、この人たちの発想力に期待したいなと思うんです。彼らは『景気が良くならないと自分の生活は豊かにならない』という発想を持っていない人が非常に多い。アベノミクスだって、日本の景気を少しでもよくしようという発想によるものですね。景気を上げて給料が上がれば、おいしいものが食べられるし、楽しいことがたくさんできる。それを通して、家族や友人との絆を再確認する。そのための景気回復なんだ! と、そういう論理もあるかもしれません。だけど、「デフレネイティブ」はそういう考え方はしないんでしょうね。最終的な目標が、おいしいものを食べて、絆を確認し合うなら、景気はどうあれ、『今日、皆でおいしいものを持ち寄って食べたらよろしいがな』というのが、彼らの発想だと思うんですよ」。

そして、<何が正しいのか、答えのない時代だからこそ>、
そういうデフレネイティブ世代が提案する社会のカタチにどんな可能性があるのか、注目したい、と。
じゃ、わたしも(半信半疑ではあるが)期待する、としよう。
 
【無用の用】
白井聡との対談から。
國分:「かつて、大学の哲学の先生はよく哲学について、『無用の用』と言っていました。でも、それに対して、『そんなこと言って、結局は役に立たないんでしょ?』という不満を溜めてきた人たちがいたわけです。そういう人たちが権力を持って、逆ギレするような仕方で猛攻をかけてきている。今起きている事態は、そうしたことなのではないでしょうか」。
白井:「出ました! 『無用の用』。佐藤優ブームが起きたときに、飲み会の席である大学教員が『佐藤優の○○解釈は全然間違っている』というようなことを得々と喋っているのを聞いて、心底呆れ果てた記憶があります。佐藤氏は『大学の人文学者が研究しているようなちょっと難しい事柄は、実務の上でも大事なんだ、直接的に役に立つんだ』ということを盛んにアピールしているわけで、我々からすれば大変な援護射撃をしてもらっている。(略)佐藤氏のスタンスが、多分に情緒的な反エリート主義、反知性主義が跋扈するなかで、知性の重要性をアピールして大衆に働きかけようとするものであることははっきりしています。そこのところを汲み取らずに、得意気に『あいつは○○がわかってない』などと言って喜んでいる大学人の姿には反吐が出ます。要するに『ボクのほうが物識りなんだよ』と言いたいだけ。で、あんたのその物識りっぷりは何の役に立つのかね、と。最初から役に立てようという気なんかないんですよね」。
 
まったく、同感です。
 
【教員は働きたいのであって、働くフリをしたいのではない】
國分:「ある世代の教員は、学生に『不良であれ』というようなことを言っている。『授業なんか出るな』と言う人もいます。最低だと思います。それは、努力してこなかったがために自分の講義がつまらないのをごまかすためでしかない。こんな状況はどうしようもないし、変えなくてはいけない。単に授業の準備を一生懸命して面白い授業をするよう努力すればいいだけのことです」。
白井:「同感です。授業に関して言うと、制度上の問題も多いと思うのです。留学経験者から聞いたのですが、米国のある名門大学で学生の1週間のコマ数は3とか4くらい。少ないように見えますが、全部ゼミ形式で毎週膨大なリーディング課題が出るし、レポートも毎週提出だから、現実的にはこのくらいが上限なのです。レポートは全部念入りな赤が入って返却される。これは理想の教育だなと思いました」。

わたしも、この<全部念入りな赤が入って返却>をやりました。
毎回大変だったけど、学生の反応が嬉しく、今は楽しかった記憶として残っています。

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