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『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(國分功一郎VS熊谷晋一郎/新曜社)を読み込む

互いの研究への深い共鳴の中で、
複数の思考を感受し合いながらの共同研究は、
「責任」の概念を抜本的に問い直す――。

この時代そのものに向けられた、「対談」形態で書かれた「研究の記録」。「まえがき(國分)」に、
<研究は、ただし、明確な出発点を持っていた。それは熊谷晋一郎さんがこれまで行なってきた当事者研究についての研究であり、私が著書『中動態の世界』で公表した中動態についての研究である。われわれは2つの研究が共鳴していること、またその共鳴が自分たちの中で複数の考えに発展しつつあることを感じ取っている>と。
 
「おわりに(熊谷)」
<当事者研究の実践がさまざまな領域で広がるにつれて、「私は、ほかならぬ当事者研究という実践のなかで傷つけられた」という声が寄せられはじめている。こうした声は、私自身を含めた当事者研究の実践家に、応答の責任を課すものだ。それぞれの現場で、どのような相互行為が生じていたのか、そして、その背後には、どのような過去の来歴があったのか。当事者研究という実践のなかで応答責任を果たすということは、そうした、時間のかかる作業にほかならない>。

実際に、そういう非難の声はあった。この事案は難しい……。
でも、こういう場で、このような表現をする熊谷さんに、
わたしは誠意を感じてしまうのだけど……

【統合失調症パラダイムの喪失】
國分:<慎重に扱わないといけないテーマということでもう一つお話ししますと、『暇と退屈の倫理学』を書いていたとき、自分自身に課していた制限があったんです。それは、精神疾患の話はしないということでした。退屈の問題を扱うならば、そこに足を踏み入れざるを得ないことを感じていました。しかし、それは明らかに僕の手に余るし、現場や臨床を知らない自分が不用意に発言することは倫理的に問題があるとも思っていました。しかし、本を出してみてからわかったのは、僕は実際には退屈の問題を通じながら、結果的には精神疾患の話をしてしまっていたということです。(中略)あの本でのボクの目論見というのは、一見したところライトな問題に思える「退屈」を、意図的に哲学的に扱うということでした。しかし、実際には退屈は精神疾患と地続きだった。退屈はライトどころか、ヘビーな問題だったわけです。そういう意味で、退屈を論じるにあたっても慎重さを忘れてはいけないと思うようになりました。もちろんそれはどんなテーマにも言えることなんですが。(中略)現代思想の領域で論じられる精神疾患というのは、70年代ぐらいからずっと精神分裂症でした。今で言う統合失調症ですね。統合失調症という病を通じて、人間の真理を描き出そうとする「統合失調症パラダイム」のようなものがずっとあったと思います僕が大学生だった90年代半ばに至ってもそうでした。ただ、今はこのパラダイムが失調しつつあるように思える。「統合失調症のような極限にこそ人間の真理はある」という考え方はわからないことはないし、精神分析を通じて精神疾患にはずっと関心を持っていました。けれども、なんというか、もう少し自分たちの日常と地続きの問題からはじめて、そこから深い問題まで考えたいという思いが強くありました。そもそも僕自身が退屈の問題にずっと捕らわれていました。そういう意味では、書いているときはまったくいしきしませんでしたが、『暇と退屈の倫理学』という本は、統合失調症パラダイムの失効に応答するものだったのかもしれません>。
 
こういう対談本って有難いですね。今までよく解っていなかったことが解るようになる。
そうか……。
わたしは、統合失調症パラダイムの中で、一人模索してきたわけか……
 
【「意志」の誕生】
國分:<古代ギリシアには意志の概念が存在しないのです。そして、古代ギリシア語には中動態が残っていた。ここに因果関係を見出すことは難しいと思います。ただ、中動態の消滅と意志概念の勃興がどうも並行して起こっているように思えるのです。ならば意志の概念はどこから来たのか。哲学者ハンナ・アレントは『精神の生活』という本のなかで、意志の概念を発見したのはキリスト教哲学だと言っています。(中略)アレントは、おそらく『ローマ人への手紙』を書いたパウロが意志概念の発見者であろうと言っています。アレントが依拠しているのは、パウロが律法について述べた有名な箇所です。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。」(『ローマ人への手紙』7-7)。アレントはこのように解釈します。律法を与えられた人は、善を為そうとする。つまり、むさぼらないぞと意志する。しかしそのように意志することは必ず「でもむさぼりたいじゃないか」という「対抗意志」を生み出す。意志は必ず分裂していて、律法を実行しようとする意志は必ず罪を犯そうとする意志を活動させる。(中略)したがって、律法を遵守しても、罪を犯しても、この内面的な意志の葛藤は決して解決しません。パウロはそのような内面のみじめさ、あるいは人間の弱さを人々が認めることを求めました。正義が為されねばならず、したがって律法が守られなければなりません。しかし、律法を守ろうと意志すれば、その意志は必ず対抗意志を生み出す。パウロはこの葛藤を癒やすのは神の恩寵だけだと考えました。苦しさから逃れるために信仰が必要とされるわけです>。
 
なるほど……。
『精神の生活』か。また課題図書が増えてしまった。
嬉しいようなキツイような……
 
熊谷:<トラウマを経験した人のなかに、暇になると地獄が訪ねる人がいて、そんな彼ら、彼女らは、『暇と退屈の倫理学』で國分さんが書かれていた「気晴らし」にあたる、喧嘩をしたり、薬物を使ったりなど、みずからを覚醒し高ぶらせる行為で、地獄のような退屈をしのいでいるのだ、と。(中略)私は、「傷」と「退屈」のあいだに何か関係がありそうだと以前から感じていて、そのことをテーマに、「痛みから始める当事者研究」という文章を書きました。そこでは、傷の「知覚」と「記憶」を分けてみた(中略)國分さんは、『暇と退屈の倫理学』のなかでパスカルを引きつつ、退屈は、人間の苦しみのなかでも最も苦しい苦悩だと書かれていました。「退屈」なんてたいしたことではないと思われているが、それをしのげるのであれば、じつは人間はどんなことでもやるんだと。「退屈」は、それほどたいへんなことなのだと説明されていた>。
 
またまた『当事者研究の研究』『暇と退屈の倫理学』課題図書2つ。
ふぅーっ……。
そして、何より懐かしい、パスカル。
高校生の数Ⅲの授業時、教科書も見ずに『パンセ』読み耽ったっけ……
で、「退屈」といえば、パスカルとともに、
『悪霊』のスタヴローギン。久しぶりに再読したいなぁー。
 
【意志することは憎むことである】
國分:<程度の差こそあれ、基本的に人間は多かれ少なかれ依存症であるというのが僕の仮説ですが、もし人間が生きていることと人間が依存症であるということが同義であるとすると、多くの人が過去をある程度は切断して、自分をある程度否定したいと考えるのは当然かもしれない。それは死にたいということではない。しかし、目を輝かせて自分の存在を全部認めていきたいというわけでもない。(中略)ハイデッガーは意志の概念について批判的なのですが、この概念についてすごいことを言っているんですね。3つあります。まず、「意志することは始まりであろうとすることである」。これは先に説明した「無からの創造」としての意志のことですね。興味深いのはそこから導き出される次の命題で、ハイデッガーは意志について、「意志することは忘れようとすることである」というんですね。(中略)最後が、「意志することは憎むことである」。自分が今生きている現在というのはどうにもならない。過去によって規定されてしまっている。このどうにもならない過去を前にして、人はそれに復讐したいという気持ちを抱く。意志はこの復讐の気持ちと切り離せない>。
 
うーん、これじゃ、ハイデッガーも読まなくちゃ。
『存在と時間』これまで挫折してきたのだけれど……
 
【意思決定支援】
國分:<パターナリズムによる患者・被援助者の決定プロセスからの排除はたしかに大問題である。しかし、だからといって、「意思決定支援」、「インフォームドコンセント」と言うだけでは。相手に責任をなすり付けることにしかならない。つまり、別の回路が必要です。(中略)「意思決定支援」という言葉に代えて「欲望形成支援」という言葉をもってくることを提案しています。意志(意思)ではなくて欲望。決定ではなくて恵生です。人は自分がどうしたいのかなどハッキリとはわかりません。人は自分が何に欲望しているのか自分ではわからないし、矛盾した願いを抱えていることも珍しくない。だから、欲望を医師や支援者と共同で形成していくことが重要ではないか>。
 
これはいい言葉だ。「欲望形成支援」。そう、これです!
いやー、良い学びがたくさんありました。

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