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『当事者は嘘をつく』(小松原織香 著/筑摩書房)を読んで――

【私は、痛む傷を抱えながら生きているサバイバー】 
本書冒頭で、性暴力被害者にして修復的司法の研究者である著者は、
<私はずっと本当のことを語ることが怖かった>と書く。
<私が修復的司法の研究を始めたことは、自分の被害体験と深く繋がっている。私は被害者だから加害者との対話に興味を持った。その、とても自然で当たり前のことが、私には言えなかった。「加害者と対話することを望む被害者」。私は、そのようなラベルを貼り付けられることに耐えられなかった>と。

この題名に込められた、重い問い掛けを受け止めつつ、読み進めた――。
 
歳を重ねるなかで、もっと若い世代を気に掛けるようになり、著者は思う。

<私は自分の物語はあまりにも個人的で特殊で、他人に語るに値しないと考えていた。ところが、このごろはまわりを見回すと、暴力や災害の被害体験の有無にかかわらず、若い人たちも痛みやマイノリティ性を抱えて研究の世界に飛び込んでくる。大学の研究者でなくとも、声を潜めて当事者性を隠しながら社会でなんとか生き延びようとしている若い人たちも私の物語は、もしかしたら、若い人たちが今後の自分の人生を考えるための材料になるかもしれない>と。
 
【悪夢に苦しむ中で――】
精神科クリニックを受診して。
<医師から渡される薬の量は増え、服薬して家でぼんやりと横になる日々が続く。日中、怒りを抑え込んでいるせいなのか、夢の中で彼と対決するようになった。一番恐ろしかったのは、彼を殺す夢を見ることである。あまりにも生々しい夢で手指に彼を殺した感覚が残っていることもあった。夜中に恐怖で叫んでは飛び起きて、知らないうちに自分が彼を殺してしまったのではないかと、朝方までニュースをくまなくインターネットで検索してしまったことがある>。

こういう、人を殺してしまうかもしれない、という恐怖。わたしも子どもの頃に味わった……。
わたしの場合、対象者は父親。酒乱で日々暴れ回る父を「殺してしまった!」と、汗だくで飛び起きたことが、何度あったか。当時、新聞記事で「酒乱の父親を殺す」的な記事(北海道では、当時それなりにあった記憶がある……)を、これは自分のあり得た現実! と畏怖した……

【被害から20年以上経って――】
<私はどんなに真摯に本当のことを語ろうとしても「自分は嘘をついているのではないか」という強迫観念を追い払えない。「私は性暴力被害に遭いました」。そう告白したとしても、私はいまだに嘘をついているのではないかという自己懐疑に囚われる。語っても、語っても、「あれは語らなかった」「これは違うかもしれない」「こんな言葉では表現できていない」という声が、自分の中から湧き上がる。他人から疑われることもつらいが、自責や自己批判も孤独で苦しいものだ>。
 
その通りですね。
 
<たとえ、本当のことを語ろうとしても、私は嘘をつくことから逃れられない。そう私は感じている。このポイントを、この本のスタート地点にしたい。この本の目的は、性暴力の被害を告発することでも、被害者の苦しみを訴えることでもない。過去の強烈な経験を引きずりながら生き延びるなかで私が見た風景を描くことだ。この物語は真実だが、私は常に「嘘をついている」と思いながら語っている。あなたが、私の言葉を疑う以上に、私は自分の言葉を疑っている。だからこそ、私はあなたに最後まで聞いてほしい。真実を明らかにするためにではなく、私は生きている世界を共有するために>。
 
“本当のことを語ろうとしても、私は嘘をつくことから逃れられない”。
この自覚は、とても大事なことだと思います。
 
【著者が、性暴力サバイバーに向けて「声をあげなくていい」と呼びかけてきたことについて】
<ここ数年、MeToo運動を中心に自らの被害体験を語ることで社会を変えようとする動きが日本でも大きくなっています。しかしながら、一度、カミングアウトしてしまうと元に戻れません。差別や偏見、バッシングに晒される危険はもちろん、過度に持ち上げられたり、社会運動のシンボルに祭り上げられたりすることもあります。カミングアウトすることで、当人が背負う荷物は軽くありません。なにより、カミングアウトとは、自己をひとつのカテゴリーに当てはめる行為であります。私は確かに性暴力被害者ではあります。他方、一人の人間の中身は複雑です。私の内面も異なるカテゴリーが錯綜して形作られています。しかしながら、一部の人たちは私のことを「性暴力被害者」というカテゴリーを通してしか認識できなくなるかもしれません。それは私にとって居心地の悪いことです>。
 
こういう“カテゴリーに当てはめる行為”を、人はやりますね。
それも支援者を名乗る、善意の方が!
 
【心理セラピストが、実際に起きていない性暴力を、あったかのように誘導的に語り掛け、「偽りのトラウマ」を植え付けているという批判に対して――】
<人間の脳はエラーを起こすことがある。ある人が想起した、ありありと目の前に浮かび上がるような記憶が、実は過去には存在しなかったということはあり得る。しかしながら、記憶のすべてが間違っているわけではない。現代のセラピストは、誤った記憶を植え付けるような誘導を行わないよう、細心の注意を払っているはずである。誤った記憶の問題があるからといって、性暴力被害者の言葉をすべて嘘であると片付けることはできない>。
 
その通りです!
 
<こうした性暴力の問題で難しいのは、証拠や目撃証言がほとんどないことである。特に家庭内で起きる児童性虐待の場合は、被害者以外が「何かが起きていること」にさえ、気づいていないことがよくある。加害者の多くは、被害者に「このことは秘密だ」と告げ、黙っているように求める。そのため、本人が沈黙を破り、被害を証言することだけが、唯一の告発の方法になってしまう。被害者が大人であっても、家庭外での被害であっても、性暴力は密室や人目につかない場所で実行されることが多く、目撃証言や証拠が十分でないことが多い。つまり、まわりにいる人たちが「当事者は嘘をついていない」と信じることが、性暴力の事実を本人以外が承認する唯一の方法になる。そのため、性暴力の問題は、他の犯罪と比べると、当事者の言葉の真偽がきわめて重要になってしまう>。
 
うーん。難しいのですねぇ……
 
著者は、博士論文を元にした単著『性暴力と修復的司法 対話の先にあるもの』を出版。この本の中で1箇所だけ、自身の性暴力被害者としての経験をヒントにかいたところがある、と。
 
<被害者が犯罪に巻き込まれて受けるショックは、他人と比較できるようなものではない。自分の体についた傷や、見た風景、その時に聞いた音、嗅いだにおいなどが、心に刻み込まれる。ときには、その記憶はフラッシュバックとして何度も蘇ってくる。被害者の意志とは関係なく、勝手に心の中で何度も記憶の再現を繰り返し、犯罪の風景を心の中で再体験してしまうのだ。そのときに被害者の心の中に現れる犯罪の加害者もまた、具体的な肉体を持った生身の人間として、生々しく迫ってくる。フラッシュバックの中では、被害者は許しがたい暴力的な行為を何度も受ける。すなわち、フラッシュバックを繰り返す中で、被害者の中で加害者の姿が生々しく蘇るのである加害者>。
 
そう……
フラッシュバックは、本人の意志とは関係なく、勝手に心の中で何度も……
 
トラウマに苦しむ著者を救ってくれたのは、専門家ではなかった(逆に、ある精神科医師は著者の気持ちに寄り添ってくれなかった)。
そこで、<私の助けになってくれたのは、同じ当事者同士の繋がり、自助グループでの活動だった>。
だが、<実は専門家の中には(言葉に出さずとも)自助グループを嫌っている人たちがたくさんいる。たとえば、「当事者ばかりで集まっているのはトラブルが起きやすいので危ない」と言われることがある。もっと悪辣に「自助グループは暗い」とか「いつもメソメソしている」と裏で言う人もいる。半分は本当で、半分はただの悪口である。(中略)グループに参加するときには、自助グループとは何かよくわかっておらず、自分が性暴力被害者だと名乗るに値するような被害を受けているという自信もなかった。「大したことない被害なのに参加させてもらって申し訳ない」とすら思っていた。グループの活動が始まると、次々と切迫した状況の被害者が飛び込んでくる。自分の被害を矮小化している暇もなかった。私たちの活動の軸は「自己の経験を語る」ことにあったが、並行して医療や福祉、法についての情報交換も重要であった。自己の思考の海に溺れかけていた私は、我に返ったように理性を取り戻し、私以外の被害者のために情報を集め始めた。私は、家族や恋人のサポートによって、トラウマに苦しみ始めてから、自己内の問題に取り組むことに集中していた。しかし、それは特権的で恵まれた状況であったからこその悩みであり、多くの被害者は心の問題は後回しで、住宅や就労の問題、子育てや介護の問題で手いっぱいで、ギリギリの状況で生き延びていた。
「私は死にかけている場合ではない」。私は目が覚めた気がした。とにかく、性暴力被害者に足りないのは社会的支援だった。(中略)性暴力被害者はいろんな手段で生き延びる。危険な性行為を繰り返す当事者もいる。違法薬物を使ってトラウマの痛みを和らげようとする当事者もいる。なんとか自分の置かれた環境から逃れようと選んだ行為が犯罪だった当事者もいる。子どもを虐待してしまう当事者もいる。性暴力は単独で存在している社会問題ではなく、あらゆる差別や暴力、経済的な問題が折り重なって構成されていることに、私は直面していくことになった>。
 
最終章の「語りをひらく」にて、
これまで“泣きながら研究を続けてきた”という著者は、以下のように書く。
 
<私も現場に出て研究する哲学のアプローチを、ポジティブなものとして学生や教員に伝えるような本を書きたかった。だけど、私の研究者人生はネガティブなことばっかりだった。それをいかにポジティブなものとして粉飾しても、書けない。私は支援者の影に怯え、惨めな記憶を抱えている、そういうネガティブの塊みたいな研究者だが、そういう人にはそういう人の役割があるのかもしれない。私の弱さの源泉はどこにあるのか。自分が弱いのであれば、とことんウィークポイントを探していけばいい。弱くて死にかけている自分は何を言いたいのか>。
「私の話を信じてほしい」
 
私は、ここまで読み込んできて、
著者の書いたことを、言いたかったことを、その思いを、
【信じます】
そして、次作をお待ちしております。

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