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シリーズ・ケアをひらく『カウンセラーは何を見ているのか』(信田さよ子著/医学書院)を読んで

【ガチンコ舞台で「カウンセラー」を演じる】 
『母が重くてたまらない』など、多数の著作がある信田さよ子氏による、
「シリーズ・ケアをひらく」本。

若き日の精神科病院体験を経て、
開業カウンセラーの第一人者となった著者が身体で摑み取った、
「見て」「聞いて」「引き受けて」「踏み込む」ノウハウの、
すべてをここに開陳!

<クライエントは、ときには共演者になることもあるが、
私というカウンセラーをじっと見つめている厳しい観客でもある。
クライエントは真剣だ。時間単位で料金を支払っているのだから、
それだけのものを得て帰ろうと思っているに違いない。
どう取り繕おうと、どのように装っていようと、
クライエントは私を観ている>。

見る/見られる関係。
 
【鍵と白衣と】
<24歳の小娘が、ジャラジャラと音のする鍵を手にし、
多くの人間を合法的に拘束できる立場につくこと、
そんなことが許されていいのだろうかと身震いを禁じえなかった。
(略)白衣を渡され、私専用のロッカーが与えられた。
ロッカー室が医師と共用だったことは、
私たち心理室のスタッフがその病院では“名誉医師”として
位置付けられていることを示していた>。

かつて、わたしも著者と同じ年齢の頃、精神科病院に就職した――。
わたしの場合は「作業療法助手」という微妙な立場。そのことに乗じて、
白衣は着ずに、患者と肩組んで病棟内を歩いていたら、
総婦長から、「職員として示しがつかない」とお𠮟りを……。
 
【告白:私は怖かった……】
<精神科病院は、刑務所と並んで合法的に人の自由を拘束できる
数少ない場所である。そこに自由に出入りする権利の象徴である
「鍵」を手にした瞬間の恐れや不安、
そしてわずかの恍惚について述べたが、
もう一つ取り上げなければならないことがある。
閉鎖病棟に足を踏み入れた瞬間に私が抱いた強い恐怖感についてである。
実は今、正直にこう書くには勇気がいった。精神科病院に勤務する者が
「患者さんが怖い」と言うことはタブーである>。

わたしの場合、この「鍵」がイヤで仕方がなかった。
で、「鍵」をなくした精神病院の文献を漁った。

患者への恐怖心。就職直後は、確かにありました。

 <少なくとも当時の私はそう考えていた。
(略)告白ついでに書いてしまおう。
私はそもそも独語や空笑をする人たちが怖いのだ。
しばしば電車でそのような人に遭遇することがある。
女性より男性のほうが怖い。(略)
アルコール依存症が専門だと豪語しているわりに、酔っ払いも怖い。
終電間際の帰りの電車で酔っ払いが
隣の吊革にもたれ掛かっているときなど、全身が恐怖で固まってしまう。
平気で薄笑いを浮かべ、知らんふりのできる人が心底うらやましい
(ちょっと大げさだが、これは本邦初公開の事実である)。
もちろん、理由はいくつも挙げられることができる。
意思疎通のできない存在であること、
その行為や反応が予測不能な存在であること、
おまけに男性で体格も力もはるかに勝る存在であること。
これらは恐怖を抱くのに十二分な条件である。
猛獣を前にした恐怖にも似ている。
とすると、私は精神科病棟の男性患者さんや電車内の酔っ払い、独語空笑を繰り返す男性のことを猛獣と同じ存在ととらえていたのだろうか>。
 
わたしのケースです。
精神科病院勤務する中で、恐怖を覚える男性患者がいました。
若い大男で、いつも肩を怒らせて歩いていた。
だが、同僚職員に言わせば、気の小さい人で、
周りの人が怖いから、そのような振る舞いをしていると。
後日、それが真実と知り、その後彼とは仲良しになり、
肩を組んで廊下を歩くようになった(で、総婦長に叱られたと)。
(閉鎖病棟実習で)保護室の女性には、食事を持って行って、
入った途端にトレイを蹴飛ばされ大変な目にあった。
後日、その方が開放病棟にくるようになって会うと、
とても穏やかで性格の良い方だった。
勤務して半年も経つと、怖い患者はアルコールの方。
職員の陰で知的障害者に酷いことをしていたから。
そして、一番怖いのが、他職員!
 
【性被害について】
<性被害の特徴は、
出来事の記憶は茫漠として漂っているのもかかわらず、
そのときの恐怖感だけが根深く残っていることである。
ある場面に遭遇すると突然恐怖に襲われ、
金縛りにあったような呼吸困難や発汗を覚える。
フラッシュバックと言ってしまえばそれまでだが、
小さな死を経験しているようなものかもしれない。
その苦しさに加え、なぜ、自分にこのような反応が起きたか
わからないという不安がさらに症状を増悪させる。
そして、弱い自分はだめだ、意志で自分制御できないなんて
だらしがないといった自責的な思考回路へと自分を導く。
この悪循環を逃れることはきわめて困難であり、
多くの性暴力被害者が、
その後の人生が根底から変わってしまったと
述べていることに深く納得させられる>。
 
確かに……。
 
【実存とは、対極の「そのまんま」】
<「カウンセラーって怖いです。何もかも見透かされてしまうみたいで」 こんな言葉を飽き飽きするほど聞かされてきたが、
私の意識の中ではむしろ逆転している。
どう受け止められているのだろうか、気に入ってもらえただろうか、
満足してもらえただろうか、
とカウンセリングのあいだ中ずっと考えているのは私のほうだ。
毎回そのようにビクビクしならがらも学習したのは、
「あがけばあがくほど悪循環になってしまう」とうことだった。
もちろんそれ相当の苦労もあった。
墓穴を掘った苦い経験もいっぱいあったことを告白しよう。
そしてたどりついたのが、「そのまんま」で行くことだった。
熊に襲われたときは死んだふりをするといいと言われるが、
私は死んだふりではなくて、「そのまんま」で行くことにした。
しかし、クライエントという観客を前にしたカウンセラーを演じる私が、「そのまんま」でいられるのだろうか。
正確に言えば、「そのまんま」っぽく演じるのだ>。
 
その通りですね。特に、最後のフレーズ!
 
<お断りしておくが、「そのまんま」は「ありのままの」とは異なる。
説教くさいあの「ありのままの私」という言葉は、
私がもっとも忌み嫌っているものの一つだ。
いろいろな試行錯誤の中で私は、キャラをどんどん多様にし、
役割演技を磨き、状況に応じて必要なキャラを
出没させられるよう努めてきた。それは絶えざるトレーニングだった。
その果てにたどりつたのが、「そのまんま」でしかなかった、
と言ったほうがいいかもしれない。
つまり「そのまんま」とは、
“実像”だの“本物”だのといった偉そうな言葉とは対極の地点にあって、
どこかやけっぱちな言葉なのだ>。
 
この「お断り」はイイですねぇー。
 
【アディクションとは】
<本人(行為の主体)にとっては問題解決行動の一つなのである。
苦しみや痛み、不安などを感じなくできれば、
そのあいだだけなんとか息をつき生き延びることができる。
医療の枠組みからは「自己治癒」と呼ぶこともある。
しかし他者(家族・友人)にとってそれは迷惑であり、
苦しみを与えられる。このようにアディクションにおいては、
行動の主体の認識と、影響を受ける他者の認識とのあいだには
大きな落差とずれが生じるのである。
この問題は、『平気でうそをつく人たち』をはじめとするベストセラー本が繰り返し扱ってきたテーマでもある。
実は多くの犯罪もそれと同じ構図を持っている。
罪を犯しても逮捕されずに平然と社会で暮らす人と、
終生消えない傷を負って暮らす被害者との対比を見れば
それは明らかだろう>。
 
これは、まったくその通りですね。
 
【覚悟】
<クライエントとの関係は、
カウンセリング料金と引き換えに発生する関係にすぎない。
たしかにそうなのだが、
クライエントの言葉を聞きながらいつも自問自答している。
私はクライエントを引き受ける覚悟があるかどうかと。
そのことを誰よりも厳しく査定しているのはクライエントである。
言葉で言われたことはないが、そう私は確信している。
クライエントは料金を支払ってカウンセラーと出会う。
そのとき、自分が語った内容、我が家で起きている数々の問題を、
目の前のカウンセラーはどこまで引き受ける覚悟があるのかを
必死で見極めようとする。
逃げ腰だったり、美しい言葉でまとめたり、怖がっていることを、
瞬時に見抜くのである。
特に広義の「被害」や家族の問題に苦しんでいる人はそうだ。
カウンセラーの姿勢が、
実はクライエントによって査定されているということ。
そのことへの畏れと謙虚さは、
逆転移などという陳腐な言葉で表現されるべきではない。
むしろカウンセラーの必要条件だと思う。
もっと大胆に言ってしまえば、
カウンセリングの効果は技法や流派などという専門知ではなく、
このカウンセラーの「姿勢」と「覚悟」によって
もたらされるのではないだろうか>。
 
これは、まったくその通りだと思う。全面的に賛成。

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