『特養あずみの里裁判を考える』(日本看護協会出版会)を、じっくり味わう……


【暮らしの中に求められる、ケアの姿】
2013年に長野県の特養「あずみの里」で、准看護師が女性入所者をドーナツの誤飲で窒息死させたとして、刑事事件に。業務上過失致死罪で一審有罪。この判決は、介護や医療の現場を萎縮させるものとして大きな波紋を呼んだが、高裁は一審判決を破棄し無罪に。検察は上告を断念し、無罪が確定。
裁判を振り返り、ケアの現場におけるリスクとコミュニケーションのあり方、科学的根拠と法の関係について検証し、ケアとはどういうものかを考えたブックレット。
介護関係者やご家族には、ぜひ読んでほしい。⇒
 
【民事ではなく、刑事!】
弁護士・上野格と看護師・宮子あずさの対談。
上野:<介護施設で働く看護師が、投薬や手術の失敗ではなく介護をしていて罪を問われたわけです。しかも「何かの処置を行ったため」ではなく、当初は「何もしなかったこと」が罪になるべき事実として取り上げられたのです。これは前代未聞のことで、過去を調べましたが、作為不作為を含めて介護施設の介護行為の問題で業務上過失致死に問われた例はありませんでした。窒息や転倒などの事故は起きていますが、民事事件ではあっても刑事事件になったことはありません>。
 
そうですね。普通こういうケースでは刑事事件にならない。なぜ、そんなことになったのか――。
 
【施設が入っている損害賠償責任保険とは】
上野:<あくまで施設に責任がある場合に賠償金を払う保険です。しかし、実際には責任の有無がはっきりしない時こそが問題なのです。例えば転倒による事故の場合、たとえ施設で気をつけていても目の届かない所で起きることがあります。常時すべての場所で見ていることなど不可能です。入所者と介護者の人数比率を見ても、実際には10対1ぐらいの中で運営しているのですから。例えば、普通に歩ける人が施設内で歩行中に転倒してしまったとして、介護側に賠償責任があるでしょうか。ここで責任がないことになれば、保険金も出ないことになります。むしろこういう時にこそ保険でカバーしてほしいのですが。(中略)責任を認めないと保険が下りない仕組みなので、ある程度の妥協と言えば変ですが、多少の責任を認めることで初めて保険が支払われる場合があるということです。(中略)責任を認めてしまっているわけですから。だからそのような場合は、まとまりそうな段階になったら「追加請求をしない」と書面で約束してもらう必要があるでしょう。微妙なケースでは保険会社も最初から十分な金額を提示してきません。額が少ないと不満も出ます。今回の事件でも弁護士が関わる前に、亡くなって2週間ほどで示談が成立し、保険金も支払われていた。(中略)「窒息による死亡」を損害賠償責任として認めています。それが後で問題になるわけです。(中略)もしその時点で弁護士が関与していれば「刑事裁判は起こさない」という一筆をもらっていたでしょう。普通はそうします。「許します。だから刑事裁判は起こしません」ということですから。だけど、ご遺族の方は賠償金をもらいつつ刑事裁判も望んでいた、つまり刑事罰も科してほしいと感じていたということです。(中略)以前から(ご遺族は)食事の時には注意してくださいと伝えておられたのです。入所時もそのことを注意したうえでご本人を預けたのだと。それなのに「食べ物が詰まって亡くなった」では納得できないという気持ちがあったのでしょう>。
 
うーん……。ご遺族がそのように思われることは、現実にある。だから、クレームがきたりする。処罰感情から。とするなら、多くの施設で、このように裁判沙汰になる可能性がある、ということですよね。
 
【介護職と看護師のメンタリティ】
弁護士は、最後にこう語る。
<介護職の方々は本当に仕事に真面目に取り組まれているので、何とかして守ってあげたいと思いました。看護師とはまた考え方が違いますよね。介護職は、終の棲家である施設で亡くなるまでどう面倒を見て、どう看取るかを考えていて、危険をすべて排除し管理するよりは、楽しく暮らせるようにしてあげたいと願っています。一方で、病院の看護師は絶対に死なせないという考えが基本にありますから、リスクの捉え方もおのずと違ってきます。個人的には、看護師ももっと介護職に近い感覚を持つことができればよいのではないかと思っています。しかし実際には、介護の現場でもリスクへの危機感が高まり、食事は細かく分けて提供しましょうと、管理を強める方向に向かっています>。
 
ええ、その通りですね。この弁護士、「介護の仕事」をよく理解していますよね。
 
【「誤嚥」と決めつけない】
保健師から特養の副施設長。現在は福祉領域の第三者評価で活躍中の鳥海房枝は書く。
入居者が、食事中に意識喪失し死亡したケース。
 
<亡くなった利用者に救急搬送時から付き添い、警察医による家族への検死説明まで同席した職員は、「警察に届けてよかった。食事の最中だったので誤嚥事故かと一瞬思ったけれど、実際は違っていた。安易に誤嚥・窒息などと思い込んではいけない。それは、医師が診察をして判断する範囲のことであることがわかった」と報告している>。
 
つい、「警察沙汰」になることを忌避する心理が働くが、時として警察に介入してもらった方が良い場合もあるのですねぇ……。
 
【予見できても防げない】
以下、大事なことが書いています――。
 
<予見可能性とは、つまり「このようなことが発生することを予見できたかどうか」である。しかしどのような特養でも誤嚥や窒息、溺水や溺死、転倒骨折などのリスクが皆無の利用者はいない。なぜなら、そのような事故は自宅で暮らす人にも発生しうる、生活に伴うリスクだからだ。年齢を重ねれば誰に起きてもおかしくない。(中略)自力で食事を摂取ができる早食べ・丸飲み傾向の利用者に誤嚥・窒息の死亡例が発生している。(中略)私が働いた職場では、こうした「早食べ・丸飲み」傾向があり、咳込んだりむせることが多い利用者が食事を摂る際は、職員が目の届く範囲にいるようにしていた。だが、居室でパンや饅頭を口にして亡くなったことがあっても、食べ物の購入や家族の持ち込み、居室での飲食を禁止しなかった。特養は生活の場であり刑務所ではないからだ>。
 
この方の特養では、なんと!入居者が利用できる「煙草やアルコールの自販機」があります。
そして、現実の特養の多くは「刑務所」と、どう違うというのか……
さらに、こう書く。
 
<利用者の家族には、身体拘束をしないことを含めて、生活に伴うリスクはゼロではないことを、契約書で示しつつ繰り返し説明した。それは、もしものときの言い訳などではなく、老いて死に向かうプロセスで身体機能の低下が引き起こしうる事象を家族に伝え共有しながら、利用者本人にとってより良いケアを目指すためでる。家族をサービスの対象とするのではなく、リスクも説明しながら、利用者にとってより良い暮らしをともに考える関係づくりに努めたのだ。ある意味で、事故はすべて予見ができる。しかし、だからといって防げるかといえばそれは不可能だ。繰り返すが、だれもが生活上背負うリスクは、施設に入居してもついてくる。この事実を職員と家族がどれだけ共有できるかが何よりも重要である>。
 
まったく、その通りです。
 
【「管理の強化」になっては、利用者にとってマイナス】
最後は、上野千鶴子が登場。
<「窒息死」事件が刑事裁判になったと聞いたときに、瞬間、いやな感じがした>と。
<これが有罪になれば現場にどんな影響が及ぶかは、容易に想像できたからだ。第一に介護に携わる職員の萎縮が起きる。第二に施設の管理が強化されるだろう。いずれも利用者にとってはマイナスの効果しかない>と、上野は危惧するからだろう。
 
【ケアする者の慎み】
<訴訟の過程では社会が受け入れやすい、わかりやすい物語がつくられる。施設での高齢者の窒息事故で、見守り義務を怠った専門職を罰したい、そして全国の介護現場に警鐘を鳴らしたい、と検察官は正義感から考えたのだろう。証拠として挙げられた施設側の「過失」は、保険金を遺族に少しでも多く渡したいという善意からだし、「窒息」とは違うんじゃないかという「異論」はヒヤリハットの自省の声にかき消された。自分たちに防げたのではないかという専門職のプライドが、現場を追い詰めた。「……には注意してください」とあんなに言っておいたのに、という親思いの遺族のやりきれない気持ちが「被告」をつくりだした。真面目な人たち、真面目過ぎる人たちばかりだ。この過程に「悪人」はいない>。
 
この記述に、強く共鳴する。ええ、その通りです!
さらに上野は書く。
 
<だが、と私は思う。ここにいないのは当事者である。死人に口はない。前日まで食欲もあり、ドーナツを提供されたら喜んでそれに手を出したご本人に、ドーナツを食べるな、固形物は危険だからこの先、おやつはすべてゼリーにします、と言えるだろうか? (中略)もしこれが在宅なら、と私は考える。ドーナツが喉に詰まったからと言って、どう処置をすればよいか、家族が知っているとは限らない。目の前で起きても、対応できなくて手遅れになるかもしれない。あるいは、本人が人の見ていないところでこっそりおやつに手を出すかもしれない。施設だって、家族や友人の差し入れを、利用者は密かに隠し持っているかもしれない。それすら管理されるとしたらあんまりだ。施設内で起きる事故はすべて施設の責任だろうか? もし、この事件が有罪になったとしたら……その結果は現場の萎縮と管理強化であることは、火を見るより明らかだろう。「安全」の名の下に利用者の行動やメニューはもっと制約され、現場の職員は今以上に管理主義的にふるまうだろう。「ダメ」と「いけない」の声が支配し、介護職はあたかも監獄の看守のようになるだろう。そうなれば拘束まではあと一歩だ。動かないようにしておくのが、いちばん「安全」だからだ。ハイテク技術を駆使して、居室に監視カメラがとりつけられ、わずかな動きも通報サインが示される。それを「よいケア」と言えるだろうか?>との、問いは鋭い!
 
【メサイア願望】
ここからの文章は、上野先生の真骨頂ですね!
<専門職には、いつでも、この介護は自分が受けたい介護なのか、を自問してほしい。家族には、もし在宅で自分がいたら防げた事故なのかを、やはり自問してほしい。施設に親を預けた時点で、家族は自分の責任のいくばくかを手放している。家族の強い処罰感情は、そのことに対する自責の念から来ているかもしれない。だが、もし、在宅でも同じ事故が防げなかった……と思えたら、責任も後悔もほどほどにしたほうがよい。
医療・介護の専門職、総じてケアの支援職に共通して感じる違和感は、ある種の無限責任感である。裏返せばメサイア(救世主)願望と言ってよい。その背後にあるのは、屈折した全能感だとも言えよう。このひとの人生は自分に全責任がある、このひとが困っていたら、このわたしがなんとかしなければならないし、その能力がある、このひとの苦悩をとりのぞくのはわたしの責任だ……こうした無限責任感は、いったん事故が起きると、きっと防げたはずだ、どこに欠陥があったのだろうかと、自責と自己批判につながる。それ自体は高邁な精神が、現場を追い詰める。それはケア職の過剰な労働強化につながるだけでなく、利用者に対する過度の管理を招く結果にならないだろうか>。
 
うーん、支援職は利用者と「共依存」関係になりやすい、という指摘なんでしょうね……
最後に先生は、こう書きます。
 
<わたしが介護職に理解と同情があるのは、介護職を応援したいからだけではない。介護職が追い詰められれば、必ずそのしわよせが、ケアを受ける側に来るからだ。それだけではない。人生の最期まで、管理も監視も受けずに自分の意思で生きたいからだ。支援される側にとっては、支援する側の全能感と無限責任感は、暑苦しく、厄介なものでもある。人は老いて、死ぬ。不慮の事故もあれば、病気や災厄もある。人生にリスクはつきものだ。そのなかで自分の力でコントロールできるものとできないものとを見分けることができたらよい。そしてコントロールできないものに対しては、「仕方がないね」と諦めることができればよい。あなたにドーナツを食べてもらいたいが、あなたを24時間監視はできないし、するつもりもない。あなたに骨折をしてほしくはないが、あなたをベッドに縛り付けたくないと。そしてあなたの病気は治せてもあなたの苦悩は救えないと。あなたの暮らしは支えられてもあなたの寂しさは癒せないと、わきまえたらよい。自分にできないことは、他人にも要求しないようにすればよい。それをわたしたちは「つつしみ」というのだ>と……。
 
ええ……まったく、その通りですね。

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