見出し画像

『神田橋條治 精神科講義(林道彦・かしまえりこ編/創元社)』を読んで

【やっぱり、先生は凄い!】
1986年から26年間の精神科病院での講演録。現場の臨床の真っ只中で、より良い治療に向けての工夫を重ねてきた著者の、新しい技法発想の萌芽と展開が一望できる。
「誤診と誤治療」「精神療法におけるセントラルドグマの効用」「問題点の指摘の仕方」「臨床力を育てる方策」「フラッシュバックの治療」「治療者の偏見」などを収録。特に「双方向性の視点」が、先生の面目躍如。

<九大の先生は、最新式のパワーポイントを使ってやったんです。結果は著しくつまらない。予想外に面白くなかった>。

言いたいこと、よくわかる。
 
<ケース自体は面白いケースだし、発表も魅力的、なのにまったく面白くない。なぜ面白くないんだろうかと、ずっと考えていたの。考えていて、一番最初に思いついたのは、ボク自身が発表するときにスライドを使わないということです。この40年間くらいは学会発表でもスライドを使ったことがない。それは、ボクがスライドで示すような数量化されたデータのある発表をせんからです。まあ話だけみたいな発表をするから、それでいいの。
(中略)どうも原稿を作ると話がつまらなくなるから、だんだん原稿も作らないことにして、今は原稿もないの>。

ええ、ええ。
 
【治療をする専門家ではなく、その下で働いているスタッフが良かった、という話】
以下、「震災ボランティアに聞いた」の章から。

<九大精神科は非常に治療に熱心でね。(中略)で、掃除のおばさんだった人たちがね、「先生たちは新しい治療法をいろいろ考えついて、一所懸命やって、それでいい論文を書いて、偉うならしゃった」「だけどね、みんな、私たちが下で助けとったから、治療がでけたんよ」と言うんだ。「それはどうして?」と聞いたらね、「どの治療をしている時も、患者さんは『この治療はつらい』『もうしたくない』『耐えられん』と言って、泣いてきた。その時に、私たちが握り飯を作って、漬け物をつけて、『これでも食べて頑張りなしゃい』と言うて、そうしてまた治療が続けられた」と。どの治療の時も、患者さんはみんな「この治療はとてもじゃないけど、やってられん」とか、「もう退院して帰ろう」とか言って、泣きついてきた。「みんな同じだった」と。だから「治療の名前はいろいろ違うと言っておらっしゃるが、私たちから見たら同じような治療だと思う」って言ってた。すごいでしょ>。
 
これは、九大精神科の開講75周年記念パーティーで、昔、掃除やお茶くみの仕事をしていたおばさんから聞いた話。とても良い話だが、同時に、そのような場でそのような方々と懇談した上、このような話を引き出した先生を尊敬できる、とわたしは思いました。
このように話した後、先生は続けて語ります。

<患者を傍から見ていたら、同じかもしらんよね、ただ理屈が違うだけで。一番根本のところに生命体があって、それがよくなろうとしているときに、「それを邪魔せんように、できるだけ助けるようにする」という原則があって、それは素人がごく自然に考えることでもある。それに少し、色を付けたり、かっこよくしたり、名前を付けたりしたものが治療法なんだよね。「昔の原始的な占い師の治療はしょうもない。非科学的だ」と言っても、効果は今の治療と大して変わらんのかもしれないの。いつもそのことを考えておかないといけない>。
 
同感です。先生は、この話の要約として、このように言います。
 
<まとめていうと、病んでいる人、あるいは困っている人に接した瞬間に、自分の中から、素人的な「助けてやりたい」という気持ちが出てくるのが一番最初でなかったら、もうおかしなことが起こってるの、自分の中に>。
 
ええ、確かに。この後でこのように話は繋がっていきます。
 
<亡くなった河合隼雄先生は「優れた治療者は『分からない』という言葉で勝負する」とおっしゃっていました。これは名言です。「あなたが言うことは全然分からん」と言うのは、これはただの“分からんちん”です。「『分からない』という言葉で勝負する」と言うのは、「あなたの話の中のこの部分が、私は分からないような気がするんだけど、その部分をもう少し話してくれない?」とか、「ここが分からないのよね」と、的確にピンポイントで指すと、それを剥こうが説明してくれるかもしれない。(中略)だけど、これは相手に説明する能力がなきゃダメです。そうすると、説明する能力がない個体からどのようにして、こちらの分からないことに関しての情報を引き出すかということになる。そこに、素人ではできない技術者の世界が出てくるわけです>。
 
うんうん。その通りですね。そしてさらに、こうも語る。
 
<お医者さんと患者さんの関係だったら、先生が「ああそうか。うん、なるほど分かった。こうこうだな」とか言ったら、「先生はすぐ、そんなに言って、全然、分かってない」とは言えないもんね。言えないからもう来ないようにするか、それよりももっと悪いのは、「ああ、自分は分かってないことも、こんなに先生は分かってくれてるんだ」とか思って、もうそうなったら信仰だ。信仰の状態に入ってしまって、先生から言われたら「やっぱり、そうだ」とか言って、先生の考えそっくりに考えるようになる患者はいっぱいいます。そういう患者さんは先生とよく似たことを言うけれど、生活はちっとも向上せんで、いつまでも職につけなかったりする。そもそも治療というのは、終わりがあるわけです。風邪を引いても、治ったらもう来ないでしょ。早く治って、病院に来なくてもいいようにするのが治療だ。ずーっと先生のところに来続けていなきゃならんというのは、治療がうまくいっとらんわけです。少しでも早く来ないようになることを目指して治療をせにゃね。ただそれが上手に行き過ぎると病院が干上がるんだな。(中略)今の水準だったら絶対に患者は減らないし、職もなくならんよ。もう下手万歳のようなもんだ。どんどん患者を増やして、治療は下手くそで、病院に長く来ざるを得んようになって、来なくなった人はみんな、どこかよその病院に行ったらして、で、ますます患者が増えて……、それは悲しいことだ>。
 
うーん……。先生は、「こっちの言うことが正しい」という精神療法は、教祖様的だと批判する。そういうことを、如何にも「教祖様的」オーラが漂う先生が仰るところが、面白い。森田療法にも言及。
 
<森田療法は「あるがままに生きていく」とか、「現状を受け入れて」とか念仏みたいに言うから、きわめて教祖様的な感じになるの。森田療法を受けて、治療から帰ってきた人はみ~な同じ。「あるがままを受け入れて」とか、いくつのことを呪文みたいに唱えている。ところが、それがあるとき消えるの。そしてパッとみんな違うようになる。そこで、みんなそれぞれ個性的なものが生み出されてきて、「あるがままで何とかかんとか」というのはもう言わなくなる。脱皮する>。

うんうん。
先生の著書は、今後も継続して精読していきたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?