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『ヘンリー・ナーウェン』(酒井陽介著/ドン・ボスコ社)を読んで――

ナーウェン神父の生涯とその霊性や著作を執筆した背景を、サレジオ会司祭が紹介する。
人と関わるなかでの失敗や孤独から逃げることなく、傷つきながらも、むしろ痛みと向き合うことで、癒しの源である神に人々を導くナーウェンの姿を明らかにしています。
巻末に、註と年譜と著作一覧。

<カトリック教会の伝統の重みと狭い枠組みに囚われることなく、非常にエキュメニカルな立場をとり、思想や宗教に関係なく、人間が何よりも「愛されている存在」であることを伝えたかったナーウェンのメッセージは、普遍的メッセージとして受け取られるに違いない>に同感。
 
【暗夜を生きた人】
<暗夜の中でもがきながら、逃げることがなかった。いや逃げ切ることができなかったのかもしれない。暗夜は誰の人生にでもある。否、人生の否定できない一部分といえると思う。彼は人間が生きる光と闇を知っていた。さらに、普段私たちが見落としがちなことにナーウェンは気づかせてくれる。それは神には光と闇があるということだ。ほかの言葉でもいい。喜びと悲しみ。充足と不満。ナーウェンはどこまでも愛に満ちている存在、果てしなく途方もなく大きな愛で自分を満たしてくれる神を求めていた気がする。時にはそれが人間へのとてつもなく大きな愛着となって。しかしどうだろう。
神が与えし愛の形は魂の暗夜であった。人間が暗夜事態を受け入れ、見つめることの心許なさに彼は真正面からぶちあたった。そこに言い尽くせない痛みがあった。神が今、ここに、その只中にいることを知っているのに、摑み切れない憤りを感じていた。もしかしたら他の誰よりも、神の光を感じていたのに、誰よりも神の闇を生きたひとかもしれない>。
 
【傷ついた癒し人】
世の人に伝えたい福音のメッセージと生きている現実とのギャップ。
<そのギャップに苦しんだのは事実だが、しかし、彼はその溝に足を取られて終わることはなかった。彼は、彼特有のパラドックスを生きた人だった。そうしたパラドックスこそが、彼の傷になり、その傷の痛みは痛みを抱えている多くの人の共感を生んだといえる。彼の痛みの経験と癒しの経験は他の人の癒やしにつながるのだ。/彼はその始めから読者向けに本を書くということは、ほとんどしていない。それは自分に当てた励ましであり、自分の弱さの吐露であった>。
 
【なぜ、ヘンリー・ナーウェンなのか】
<1970年代後半以来、東洋思想やニューエイジなどがブームとなり、体と魂の一帯を求めて、癒し・ヒーリングを得ようとする動きが特に欧米では盛んだ。ヨガのグルーや禅の老師の指導の下、多くの人が物質主義に偏りがちな社会の中で精神世界に心の平和を求めている。物質世界の偏重が精神世界への希求を呼び覚ますのだろう。そんな東洋思想や超自然への憧れが高まっている北アメリカで、ヘンリー・ナーウェンという一人のカトリック司祭が注目を浴びるようになった。特に1970年代後半からのことだ。彼が著作や講演を通して語りかけるのは、キリスト教的な神概念であり、人生観だった。彼は大学の神学教授であり、心理学者でもあった。彼のメッセージは決して説教臭い内容ではなく、専門的な内容のものでもなかった。それはとても人間味豊かで、人間の持つ弱さや挫折について包み隠すことなく語った。プロテスタント系の諸大学で教鞭を執った彼の著作は、早くからプロテスタントの人々の中で読まれ、支持されていた>。
 
ええ。
 
【ヘンリー・ナーウェンの魅力】
<欧米だけでなく、日本でもヘンリー・ナーウェンの著作の読者は増えている。それは翻訳されている彼の著作の数を見るだけでも明らかだ。ナーウェンの著作は主としてプロテスタントの人々によって翻訳されてきた。というのも彼の著作は北アメリカのプロテスタント系神学校で広く教科書として使用されていたからだ。北アメリカで彼の著作に出会った日本のプロテスタントの人々が、日本の教会に非常に有益な内容だと判断して翻訳を始めた。その後、カトリック系出版社も翻訳を出すようになった。なぜそれほどまでに、ヘンリー・ナーウェンの著作が受け入れられ、読まれるようになったのだろうか。彼の著作は伝統的な意味での霊的読書という範疇を越えて、現代的な「癒し・ヒーリング」という新しいタイプの糧を与えているといえる。すなわち、彼の著作を読む人はそこから励ましと癒しを得ることができるのである。それはなぜか。ヘンリー・ナーウェンが、その著作で多くの人々が内に秘めている魂の叫びを赤裸々に綴っているからだ>。

ええ、ええ。
 
【孤独感と無力感】
<やり場のない孤独感が、彼の心を行き来していた。しかし、初期の作品に見られた失望感あふれる無力感と、晩年の無力感とでは何か違う要素がある。彼の外的な変化、すなわちアカデミックな世界からラルシュの世界への移行が、その違いをもたらしたといえる。競争意識と成功願望が支配する前者では、事実、彼は窒息しかかっていた。まさに孤独が引き起こす闇に引きずり込まれそうになっていたのだった。しかし、ラルシュでのハンデを負った人々との共存と最大の精神的危機後の落ち着きの中で、彼は、新しい孤独のあり方を見いだしていったのだ。それが「空しい孤独感」から「神と共に一人でいる」ことへの決定的な移行である>。
 
実感として、<ラルシュでのハンデを負った人々との共存>の大きさは、よくわかります。
 
【傷つきやすい、ナーウェン】
<彼はすぐに拒否されたと感じがちだった。人との関わりの中で自分が思うような相手からの反応がない場合、自分を低く評価する暗い感情に引き込まれ、落ち込んでしまうことがしばしば起こった。それは自己拒否という悪循環の状態だった。自己拒否は真実の自分を認めることを拒む態度であり、神と共にある自己を否定する。お前は何者かになり、自分の成功を示せ、そうすることで自分自身の存在を証明するのだという声は彼は大いに悩ませた。ナーウェンを翻弄した偽りの声が最高潮に達したのは、彼がハーバード大学にいる時だった。彼は有能な教授であり、献身的な教師であり、人気のある心理学者だった。しかし、彼は心の奥底に今にも引き裂かれんばかりの思いを抱えていた>。
 
同じく「偽りの声」に苦しめられた者として、この記述も、よーくわかる……
 
【愛されていることへの自覚】
<神によって迎えられているものであるという確信を回復することはたやすいことでない。なあぜなら、私たちの住むこの世界は「自己不信、低い自己像、自己拒否、落胆という闇に、しつこく私たちを引きずり込もうとする」からだ。彼はよくこうした状態にある人間を「傷を負っている」と表現したり、「裂かれている」と表現している。人間が本当の神の愛する子どもとしてのアイデンティティを回復するために、こうした傷つき、裂かれるなどの無力感の体験が必要なのだ。無力感という痛みの経験なくして、癒しも有り得ないのである。ヘンリー・ナーウェンの人生はまさにその繰り返しだった。彼はその繰り返す想いを多くの読者と分かち合ってきたのではないだろうか。それを包み隠さず、痛みを痛みのままに訴え、そこからの助けを願ったのだ>。
 
そして、その助けの手を差しだしたのが、一人の重度身体障害者だったのですよねぇ……。

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