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『不干斎ハビアン(釈 徹宗/新潮選書)』を、じっくり読み直しました。

10数年ぶりの再読でした。
【宗教というヌエのような存在を把握できた(と感じた)ときは、ある種の宗教体験のような状態になる】 
ハビアンは400年前、元・禅僧であったがクリスチャンへと改宗し、『妙貞問答』で仏教・儒教・道教・神道を細密に研究した上で批判した。だが晩年、キリシタン批判書『破提宇子』を発表。日本人キリシタンの中心的存在として活躍していたのに、なぜ突如キリシタンを棄教したのか。『破提宇子』は、キリシタン教団から「地獄のペスト」と怖れられたという。仏教からキリスト教までを批判した世界初の比較宗教学者。そのような人物が16世紀の日本にいた。
 
【浄土宗について】
<「弱者の宗教は一神教化しやすい」という法則通り、阿弥陀仏ただ一つへの志向性が強く、救済型宗教の特性を兼ね備えた仏教なのである。そのあたりがすっぽり抜け落ちて「つきつめれば一切は空へと行き着く」というのは、あきらかにこの後に語られるキリシタンの特性を際立たせるための戦略である。浄土仏教の救済宗教的側面を詳述してしまうと、キリシタンの教理と共通するところが表出してしまう>。
どうも、ハビアンにとって浄土仏教は、天台宗や禅仏教ほど思い入れがある体系ではなかったのかもしれないようだ、
という真宗学徒という著者の洞察に賛同する。
 
【浄土真宗への言及】
<「親鸞という上人(ママ)は自ら結婚して世間に隠すこともなかった。この教えは今、えらく世の中に広まっている。しかし、これほど上出来な宗旨もない。なにしろ、持戒も破戒もないのだ。こんなお気楽でありがたい教えはない」といった調子で、あからさまに揶揄している。キリシタンを特徴づける教えのひとつに「倫理」があった。特にセクシュアリティに関する規範はそれまでの日本社会にはそれほど意識されてこなかった部分であった>。
そういう文脈で、倫理感を盾にキリシタンは仏僧たちを批判し、
ハビアンは浄土真宗を嘲笑したのだ、と著者は書きます。
さらに、
 
<浄土仏教はキリスト教のプロテスタントと共通した部分を持つ。その証拠に、来日した修道会の宣教師たちは、浄土真宗を見て、なぜこのようなプロテスタントに似た宗教があるのかと驚愕し、これこそ我らの真の敵と語っている。『妙貞問答』における浄土真宗の記述は、その当時庶民を中心として日本最大級の規模を誇った仏教教団にしては、あまりに少ない。しかもほとんど『仏法之次第略抜書』を模写している。ハビアンが浄土真宗について深く思索した形跡なし、ということである。なぜハビアンは浄土真宗について語ろうとしなかったのだろうか。そもそも「上巻」の分量配分から考えて、浄土宗の記述もかなり少ない。さらに浄土真宗は、浄土宗に付属したような扱いで数行書いているのみである。おそらくハビアンは、天台宗や禅仏教などに比べてそれほど浄土仏教に精通していなかったため、このような扱いになったのであろう>。
確かに、そうですね。仏教の基本教理はきちんと押さえているのですがね。
 
【ハビアンの比較宗教学者としての誠実さ】
<ハビアンという人物は、自らの信仰を語るときよりも、第三者として諸宗教を語るほうがその能力を発揮しているような気がする。こういう人は現在でもいる。諸宗教を熱心に観察し、深く思索するのであるが、自分自身は宗教体系の外にポジショニングするタイプの宗教研究者などもそうである。どこまでも知で宗教にアクセスする。篤信者から見れば、「あんなことで宗教がわかるわけがない」などと批判されるのであるが、時になかなかの宗教性を発揮したりする>。
なんか、わたしのこと言われたような……
 
【村“神”様を考える】
<日本の「神」は、もちろんキリシタンの神(デウス)とはまったく別物である(近代になって、Godに「神」という訳を使うようになったのは、キリスト教にとって大きな躓きだったかもしれない)。本居宣長が言うように「尋常ではないほどすごいもの」が神ならば、常ではないほどの能力があったり、功績があったり、とにかく普通でないものを神として祀ることとなる。神話の神々、土着の神、外来の神、人間、道具、自然現象、なんだって祀るのだ>。
そう、もう森羅万象すべて。だから、プロ野球の選手だって神様になれるんですよねぇ。
 
【儀礼】
<比較宗教文化論では、日本人の宗教性を「儀礼好きの戒律嫌い」と表現する。この場合の「(宗教)儀礼」は、宗教儀式から聖職者の衣服や建築様式まで幅広い領域を指す/儀礼とは信仰や教義よりも関係性が先立つところに特性がある。例えば、葬儀や法事は、明確な信仰がなくても参加する。自分の信仰とは異なる宗教の儀礼であっても、列席することもある。つまり、信じていなくても宗教儀礼は成立する/信仰や信心がなくても、教会や寺院に佇めば、その場の聖性を感じて宗教性の共振現象が起こる場合もある>。
パワースポットなどが思い浮かぶところですね。
 
 
【「三位一体」という躓きの石】
<ある意味、イエスという人物こそ、キリスト教体系の成立における最も困難な壁である。なにしろ「三位一体」というアクロバティックな落とし所に行き着くまで、300年を要したくらいである。イエスの位置づけをどうするのか。神だとするならば、モノシイズム(唯一神教)というユダヤ―キリスト教最大の特性が損なわれる。しかし、ただの預言者とするならば、キリスト教の存在意義自体が危うい。結果「三位一体」、つまり父(神)と子(イエス)と聖霊(天使などの神の働き)は、三つにして一つという教義へとたどりつくわけである>。
ここ、注目ポイント。さらに、
 
<「三位一体」はキリスト教最大の特性のひとつでありながら、唯一神教であるキリスト教にとって内包された矛盾であることも確かである(例えば、イスラーム教からは「三位一体にマリア信仰や聖人信仰……、これじゃキリスト教は多神教ではないか」などと揶揄されている)。そして、ハビアンはこの落とし所が抱える矛盾を見逃さなかったのである。日本のキリシタン信仰にはあまり「三位一体」が強調されなかった。それはキリシタン信仰の特徴のひとつにも挙げられている>。
確かに、この「三位一体説」をめぐって異端も出たし、外国人宣教師も説明に困ったでしょうねぇ……
 
【あるがまま】
<「自然のまま」「あるがまま」に高いプライオリティを置く傾向は、日本宗教文化には根強くある。例えば、仏教の「出家」というライフスタイルは、日本宗教文化の中で大きく変容する。不自然だからだ。日本仏教では、出家形態はノーマライゼーションされていく。より自然な形態である在家との境界線上(例えば、沙弥・聖・毛坊主など)がこれほど豊かである仏教は他にない。例えば、法然は「救いの本質は生活形態に左右されない」とし、一遍は「在俗でありながらなおそれにとらわれないことこそ最上なのだ、そうできない者が仕方なく出家するのである」と語る。また、臨済禅を大成した白隠は、わざわざ出家せずともいいんだ、結局はみんな病床についたりして、世間を出ねばならない。それは出家なのだ。などと言い放つ。禅師であり仮名草子作家でありキリシタン批判も行なった鈴木正三は、「普通に生活することこそが仏道」と説いた。この世界すべてが法を説き、日常生活すべてが仏道だ。このことが初めからわかっていたら出家などしなかったのに、と後悔している>。
要は、「自然のまま」ということですね。
ここで、明恵上人の「阿留辺畿夜宇和」を思い浮かべていたら、
数頁後、ちゃんと言及がありました。
 
【キリシタンの「全能感」への反発】
<ハビアンの宗教論は基本的に経験則に基づいている印象を受ける。それはハビアンの合理主義的精神の現れかもしれない。あるいは、禅仏教ではしばしば「仏法に不思議なし」と語るが、これは仏教の教えの多くは経験則や人間観察に基づいて成り立っているので、「語り得ぬことには沈黙する」という「無記」という態度をとるためである。『破提宇子』で表明されているように、「自然」「あるがまま」に立脚したハビアンにとって、「この世界はすでにある」というところから出発せず、すべてを語り尽くそうとするキリシタンの態度は傲慢であり独善的に映ったのではないか>。
だから、ハビアンは、デウスの全知全能性の矛盾を衝く戦略を執った、と。
 
【ハビアンと読者のわたしを結ぶ「宗教的個人主義」】
長々と引用してきたが、ここが本書の核心にして、わたしが惹かれた由縁が開示される箇所。
<ハビアンに見られる特徴的な傾向、あえて類似性が高いものを挙げるとしたら、それは現代社会において見られる「宗教の個人化」「個人の宗教化」だろう。「宗教教団の信者になったりする気はないが、宗教性を渇望する」、あるいは「さまざまな宗教から自分にとって必要な情報を抽出して個人的に構築する」、そのような形態である。これをアメリカ人の宗教学者ロバート・ベラーは「宗教的個人主義」、あるいは「個人宗教」と呼んでいる。これは何も日本人特有の傾向ではないのだ。精神性や価値体系の混乱期において、ハビアンは「自分をキープしたまま、各宗教を活用する」「自らの知的好奇心を満たしてくれる宗教情報にコミットする」という態度を貫いた。このようなハビアンの宗教態度は、まさに宗教的個人主義である>。
これは、わたしが、今現在立脚している立場でもあります。
 
【神も仏も捨てた、江湖の野子】
<ハビアンは「絶対・普遍」の概念を持ったキリシタンさえも相対化した。並みの力量ではないと思う。さらに、仏教・儒教・道教・神道と、その当時、身の回りにあったすべての制度宗教を相対化してしまったのである。しかしハビアンは、宗教を排除した「世俗主義」にも同調を示したわけではない。そこに開けてきたのは第三の道である(その第三の道は現代スピリチュアリティの領域とも重なるところがある)。ハビアンはその領域での立脚点を「江湖の野子(やす)」と表現した>。

ハビアンの着地点は、「俗界の野人」。
諸宗教によって育まれた宗教性だけを拠り所に、
ただ独り、裸で生き抜き、死に切る。

このハビアンの覚悟に、惹かれた――

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