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『薬物依存症(松本俊彦著/ちくま新書)』を読む。

薬物依存症治療の第一人者が、
「意志が弱い」「快楽主義者」「反社会的組織の人」など
世に蔓延する誤解をとき、医療や社会のあるべき姿をも考察する。
薬物問題は「ダメ。ゼッタイ。」や自己責任論では解決にならない。
痛みを抱え孤立した「人」に向き合い、
つながる機会を提供する治療・支援こそが必要だ、と。

表紙に、
<依存症とは、単に「人に依存できない」病なのではなく、
安心して「人に依存できない」病である(略)
薬物依存症からの回復支援において、
彼らに様々な機会を捉えてつながりを提供し、
社会を孤立させない支援が必要>と。

同感だ。
 
<人が薬物に手を出すのもまた、多くの場合、
「つながり」を得るためなのです。
実際、薬物を使うことによってある集団から仲間として見なされたり、
大切な人との絆が深まったり、あるいは、
薬物の効果によって一時的に緊張感や不安感がやわらぎ、
ずっと悩んでいた劣等感が解消された気になって、
苦手な人づきあいが可能となったりします。
その結果、その人は「つながり」を手に入れるわけです。
思うに、薬物使用が本人にもたらす最初の報酬とは、
快感のような薬理学的効果ではなく、関係性という社会的効果です>。

ええ、そうです。そして、アルコールも同じですよね。
 
<忘れてはならないのは、
違法な薬物を使ってでも人とつながりたいと願う人は、それほどまで強く、「自分にはどこにも居場所がない」「誰からも必要とされていない」
という痛みを伴う感覚に苛まれ、あるいは、
人との「つながり」から孤立している可能性がある、ということです。
とはいえ、薬物には依存性――人と脳と心を「ハイジャック」し、
その人の物の考え方や感じ方を支配する性質――があるのも事実です。
そして、心に痛みを抱え、孤立している人ほど、
薬物が持つ依存性に対して脆弱です>。

その通りです。
 
<そのような人は、
あっという間に薬物によって脳と心を「ハイジャック」され、
気づくと、仲間に背を向け、
大切な人を裏切ってでも薬物を使うようになってしまいます>。
 
ここが、薬物の怖さですね。
 
<もはや薬物は人とつながるためのツールではなくなり、
むしろ「つながり」を破壊して人を遠ざけ、
世間の騒々しさを遮蔽して、
自分の殻に閉じこもるためのツールへと変化しています。
これが、人が薬物依存症という病気に罹患していくプロセスなのです。
私はかねてより、薬物依存症とは「孤立の病」であると考えてきました。
つまり、孤立している人が「つながり」を求めた結果、
かえって孤立を深めてしまうという、実に皮肉な病気です。
もう少し高尚ないいまわしで、こういいかえてもよいでしょう――
曰く、「孤立は人を孤立させ、孤立は薬物を吸い寄せる、
そして、薬物はその人をますます孤立させるのだ」と>。
 
まったくその通りですね。
 
【アルコール依存症と薬物依存症】
<アルコールのようにいつでも簡単に入手できるものとは異なり、
覚せい剤はそれなりに入手が大変で、
入手に際しては様々なリスクを伴います。そ
れがよい意味で再使用のブレーキとなっているのは確かですが、
同時に、自分が抱える問題を過小視させることにもつながっています。
たとえば、アルコール依存症患者が、
いくらでも簡単に酒類を入手できるこの社会において半年間断酒するのには大変な苦痛を伴いますが、覚せい剤依存症患者の場合には、
覚せい剤が手に入らなければそれはそれで諦めがつき、
半年使わなくとも本人はさほど苦痛を自覚しません
(もちろん、目の前に覚せい剤を差し出されたら
100%手を出してしまいますが)。
そのせいで、「俺はその気になればいつでもクスリをやめられる」
という錯覚を抱きやすいのです。
要するに、覚せい剤依存症患者は「底つき」を体験しにくいといえます>。
 
確かに。
 
【薬物中毒ではない】
<この薬物依存症という事態に相当する言葉として、
かつては「薬物中毒」という用語が用いられていました。
しかし、不正確な表現として、
いまではもう、この病態を示す言葉として用いられなくなっています。
というのも、「中毒」というのは、
文字通り「毒(=薬物)が身体のなかにある状態」、
アルコールならば酩酊した状態、
薬物ならば「クスリがキマッた状態」「ラリッた状態」を指します。
したがって、問題は、身体の中に毒(薬物)があることであって、
その解決方法は「解毒(毒を体外に出す)」
であるという誤解を生みかねません。
依存症は、それとは明らかに違う状態です。
なぜ退院したばかりアルコール依存症患者が再飲酒してしまうのか、
なぜ刑務所を出所したばかりの覚せい剤依存症の人は
また覚せい剤に手を出してしまうのか>。
 
同じ理由で、「アル中」という言い方も、誤解を生む表現になる。
 
薬物依存症とは、「薬物が体内に存在すること」が問題ではなく、
薬物をくりかえしつかったことで、
その人の体質に何らかの変化が生じてしまった状態である。
 
だから、薬物中毒ではない、と。
 
【「大事なものランキング」の変化】
<精神依存が成立するようになると状況が変化してきます。
いつの間にか、自分の意識のなかで薬物の存在が大きくなり、
気づくと、価値観の序列、いわば「自分にとって大切なものランキング」が変化してしまうのです。薬物が、これまで自分にとって大切だったもの――家族や恋人、友人、仕事、財産、健康、そして将来の夢よりも
上位に位置づけられ、
薬物を使い続けるライフスタイルに合った恋人や友人を求め、
そして、薬物を入手するお金を手っ取り早く稼げる仕事を
選択するようになります。
こうして将来の夢もかつてとは異なるものへと書き換えられ、
人生は薬物のコントロール下に置かれてしまうわけです>。
 
これも、実によくわかる。
わたしの場合、
アルコールのコントロール下に置かれた状況が厭になって、
酒をやめた。
 
<自助グループによって回復した薬物依存症者は、薬物依存症者のなかでも「エリート中のエリート」といってよいでしょう>。
 
実に同感です。
 
【自助グループなしでは回復できないのか】
<かつて私たち依存症にかかわる援助者は、
依存症からの回復には自助グループへの参加は
必要不可欠なものと考えていました。

だからこそ、患者が自助グループに参加したがらなかったり、
12ステッププログラムの考え方を否定したりした場合には、
その患者がまだ自身の依存症に対する否認が強いと判断し、
治療意欲を疑いました。
ときには、自助グループに行く・行かないで揉めて治療感が破綻し、
治療が中断となってしまうこともありました。

また、
「自助グループへの参加を拒むのは、
まだまだ薬物の問題に本気で困っていない証拠。
もっと痛い目に遭って“底つき体験”をしなければならない」
という考えから、極端な話、患者に対する援助を控えたり、
冷淡な対応をしたりすることもありました>。
 
これは、その通りなのだが……
援助者の立場にある人が、このことについて、
ここまで率直に書かれたことに敬意を表する思い。
さすが、松本先生だ。

さらに、これについて、先生は踏み込んで書いてくれます。嬉しい!
 
<しかし、いまになって振り返ると、
こうした対応は
医療者の姿勢として問題であったのではないかと反省しています。
このような対応のせいで、
治療にアクセスできないまま逮捕されたり、
命を落としたりした薬物依存症患者もいたのではないかと思うと、
忸怩たる思いに駆られます>。

こうした真摯な表現をされる先生を、わたしは信頼しています。

<いまではこう考え直しています。曰く。
「自助グループは依存症支援に役立つ重要な社会資源の一つである。
もしも患者が自助グループを気に入ったならば、
その患者はとてもラッキーだ。
なぜなら、
回復に関して大きなアドバンテージを手に入れたことになるから。
しかし、気に入らない、合わないと思ったからといって、
その患者が回復できないわけではない。

回復のための選択肢は他にもある」と>。
 
先生、よくぞ書いてくれました。
それでは、その選択肢は、具体的に何? という話になります。
そこで著者がやったのは、
薬物依存症の治療プログラムの開発で、本書で詳しく説明しています。

うん、とても良い本だ。

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