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日本については、豊臣秀吉以来の世界観をまず破壊する必要がある。
戦後から現在まででハッキリしたのは「政治・思想的対立の構造がある場合、対話はほとんど無駄であるし、議論はかえって対立を深める」ということだ。【ジェノサイド】という一見逸脱した行為は、もしかしたらそんな現実に直面した人類が長い時をかけて編み出した解決策だったのかも知れない。
風刺に対する許容度が下がったのではなくて昔なら直接ぶん殴られていたものがコールアウト程度で済んでいるだけだ。むしろ安全性は上がっている。それがいいとは思わないけど。
要するにこの国に足りないものはシリアスさだと思う。ほとんどの人が口先のレトリックでどうにかなると思っている。
それにしてもトラウデン直美のような言い方が可能である以上、この国に明確な権力者が存在しないことは明らかだよね。
無課金おじさんは無課金という行為の主体としておじさんを捉えているので人格を認めていますが、おじさんの詰め合わせは人格を認めない言い方なので批判されるわけです。野生の豚とソーセージぐらいの差があります。後者は人をソーセージ扱いしているのです。
選挙で落とせる存在がなぜ権力者と呼ばれるのだろうか。
人文学者は他の分野の学者に比べて専門外の問題に対して(精通しているわけでもないのに)口を挟みすぎる傾向があると思う。それが結局ソーカル事件という事態を招いたが、この体質は今も変わっていない。
蓮舫の人間性の問題とは別に、蓮舫が誹謗中傷に対して司法に訴えることは人権を持つ国民として全く正当であり、安倍晋三も小池百合子も昔気質に大物ぶって寛容な対応などすべきではなく彼女と同じようにすべきだったのだ。
日本は村社会などではなく「学校社会」だと思う。小学校の感覚から一生抜け出せない人々が大勢いる。ずっと学級会をしている。
暴力革命はいきなり始まったりしないよ。
私は民主主義に関して肯定的な意見を持つことが出来ない。
アニメの実写化は失敗作が多いと言われているが、実写のアニメ化の方が失敗作は多いと思う。
以前は恐らくあまり見られなかったと思うが、昨今リベラルやアクティビストを名乗る人たちほど頻りに「人として」とか「当然」「当たり前」「常識」という語を使いたがる点に人員の入れ替わりを感じる。
肉体にまつわるあらゆるしがらみから解放された「ニンゲン」という理想像は、本当に有害だと思う。