清と紫

 彼女は河畔で水を浴びていた。
 水際に跪き、苔生した手桶を川面に沈める。 そうして掬い上げた水をその身に掛け流す。 着古した薄物のまま、何度も何度も水を浴びている。おそらくは幾星霜も。
 朝の空気の冷たさは飛び跳ねた水滴がたちどころに凍り付くことから明瞭だが、辺りを覆い尽くすかの様な蒸気は彼女の肌の熱さが故に生じたもの、それほどの想いを込めての水垢離とは笑止、一体どの神仏に向けて祈るというのか?
 
 うつつと虚ろの境を流れる河のほとりに小さな庵がある。その主は古き統治者の従者、河清。今、一心不乱に水を浴びている女である。
 その昔、従者としてこの宇宙を統べていた頃の彼女の才覚には正直妬ましく思うところもあった。光と闇と、あるいは善と悪との調和が有り、それはそれは清澄な、魚すら泳がぬほどに清らかな狭間の河の様な宇宙を、河清は易々と実現させていたのだった。
 時は移ろう。それは統治者といえども例外ではない。飲み込みし奇跡の輝石がいつか消し炭の様に黒く小さく縮み込んでいく、それを逃れるすべはない。どこかの星に人として生まれつき、有限の命のある時をもって宇宙を統べるものとして覚醒し、うつつの身体と虚ろな心とにその存在を分離させ、統治者は自身の宇宙を存在せしめる。新しき統治者の宇宙は古き統治者の宇宙を上書きし、飲み込み、その果てに古い思い出の様に狭間の河を流れさせる。やがていつか、己の流れ着く場所となることを確信しながら。
 私は今、この憑かれた様に水を浴びている女、老い始め、生命の輝きの翳り始めたこの女と自身を重ねることなどできない。ただ、予感するだけだ。いつか私もこうなる。けして承諾できる未来ではない。
 私の仕える方は、人として生きていた頃には兄として慕っていた者、些細なことで笑い合い、時には小さな諍いもし、ごくごく平凡に毎日を過ごし、そうした他愛もない事々が、幸せという言葉で表現できる最もありふれた、しかし最も美しいものだったと今では思う。 もはやこの身に幸せなどはない。
 覚醒した兄が最も愛していたのは妹たる私だった。そして彼を最も愛していた私こそが、従者として、その新しき統治者に選ばれたのだ。
 時空は消え、新しき宇宙が生まれ、私の目の前には玉座に結跏趺坐する統治者の姿があった。腹部にはぼんやりとした赤い光が灯っていて、それは新しい奇跡の輝石が根付いている証。深き真理の眼差しが私を見つめていて、やがて、そのうつつな想いが次第に眠りにつく様に虚ろの中に溶けていくのを私は知った。彼はもうここにはいない。ここですらない。全てであり、そして宇宙の様に空虚なのだ。眼差しは今や石像のそれの様に冷たく、そしてもう動くこともない。もう、私を見ることはない。
 従者たる私はその身動きもせぬうつつの抜け殻を安寧のままに守り続けるのが役目。私はその孤独の代償に、この宇宙を色とりどりの美しさで充たそうと思い、そうした。
 私の名は紅紫、花々の色や日の色の翳り、全て美しきものの創造主。私は一人、この宇宙に美しいものを振りまいてきた。
 そうして、ふと気付いたのだ。統治者の輝石の色が薄い緑色に変わったことに。虹の色の様に変化していくという奇跡の色、いつか統治者も終わりを迎える。私はその当たり前の事実を受け止めることができなかった。
 どんなに美しいもので充たしても、終わりがあるのなら全ては無意味だ、と。
 だから私は河清を探した。
 私の意味を見いだすために。

 意味などないわ、若い人。ただそこに宇宙があるだけ。統治者にも意味などなく、もちろん従者が何をしようと、また新しい宇宙に塗り替えられるだけ。
 だから私は、自分自身に祈り続ける。今となっては虫けらの死骸の様に縮こまってしまった、私の大切な統治者のために。私はいつまでもこの狭間で祈り続ける。その間だけはこの想いが真実になるから。

 真実などいらない。
 私は美しきものだけを欲する。
 水垢離をするものの美しさに、私は今、ねじ伏せられている。私の宇宙がある限り、河清、あなたの美しさは翳らない。濁りない流れに私が変えてあげる。
 

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