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もう人間関係にイライラしない。無敵のコミュニケーション術

「どうしてそんなにコミュ力が高いんですか?」「どうしても人と話すと疲れてしまって...」「どうしたら人と上手くコミュニケーションが取れるのか、教えてください!」といったような要望が絶え間なく存在している。おそらく彼らは、「アイツはプロ奢ラレヤーなんていう人に会いまくる仕事を余裕でこなしているのだから、コミュニケーション能力がハンパないのだ!そうに違いない!」と考えて、こうしたことを毎度尋ねてくるのだろう。

しかし、ぼくは断じてコミュニケーション能力は高くない。それこそ、コミュニケーションの基礎中の基礎である「ひとを怒らせない」ができないほどだ。いまもツイッターでは知らない人に怒られ続けている。あくまでお前が不快に感じないのは「お前がぼくのことをよく知っているから」である。

さらにいえば、これはオフレコなので有料部分に書くが、約3年前にはだれもが「あの人は温厚そう」という印象を持っているあの人にでさえ、ブチギレられた経験があるほどだ。学校では「中島くん(ぼくの本名)の話って、分かれば面白いけど基本わかんないよね...」などとよく言われた。とにかく、ぼくはいわゆるコミュ障なのである。

そんなコミュ障のぼくが、なぜ日常的に「人間とコミュニケーションを取ること」をメインとした活動を続けられているのか。それには秘密がある。そして、今回はその秘密について書いてみることにした。日々、人間とのコミュニケーションにストレスを感じている人。どうしても避けられないけど苦手な人とコミュニケーションを取らなければいけない人など。とにかく全国の「コミュ障」に向けて、ひとつの提案をしたつもりでいる。

この「無敵のコミュニケーション術」の極意を身につければ、きっとお前も明日からノン・ストレスな人間関係を築くことができるはずだ。

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今回のタイトルを「無敵のコミュニケーション術」としたのには、とある理由がある。そう。あくまで最強ではなく、無敵なのだ。つまり、このコミュニケーション術は「攻めではなく、守り」の技術なのである。

「攻めではなく、守り」とはどういうことなのか。まずは挨拶がてら、ぼくの過去の(主に2年前以前の)コミュニケーションについて思い出してみることにする。

さっそく、この文章の無料部分に書いた「3年前にとある人物にブチギレられた」という部分に触れるのだが、その人物は「ムツゴロウ」さんである。あの動物をナデナデしているイメージのおじいちゃんだ。どんな繋がりで、とツッコミたくなる気持ちはわかるが、人間には様々な事情がある。触れないでほしい。さいわい、今回はその経緯を文脈として必要としない文章であるので、問題なくスルーすることができる。こうして「触れないでほしい」と人間が暗に主張したことには決して触れないということも、無敵のコミュニケーション術のひとつだ。相手がハッキリと口にしたことには出来るかぎり従うこと。重要なことである。

さて、こうして無理やりお前らの知的好奇心を抑え込んだところで本題なのだが、とにかく当時のぼくは「余計なことを言っていた」のだという。もちろん、当時のぼくは正直そんなことを自覚していなかったのだが、周囲の声をきくかぎりではそうらしい(自覚していたら言っていない)。

言わなくていいことを言う。相手の価値観に土足で踏み込む。じぶんのことをよく知らない人に、「社会的でない言動」をする。どうやら、この3つは出来るだけしないほうがよいようだ。あくまで推測だが、あの頃のぼくはこの3つを多用し、さまざまなコミュニケーションを破滅させてきた。いまは「じぶんのことをよく知らない人」と会うことが減ったから、その点についてはパワーで解決した。

この3つだけでも覚えてかえれば、あなたの人生はコミュニケーションにおいて不快な思いをする絶対数が明らかに減少するだろう。言わなくていいことは言わない。相手の価値観に土足で踏み込まない。じぶんのことをよく知らない人に、「社会的でない言動」をしない。

しかし、今回の本題はここではない。今回はあくまで「守り」のコミュニケーションである。つまり、「こちらがどれだけストレスを感じずにコミュニケーションを取れるか」が鍵なのだ。

ずばり答えを簡潔に言ってしまおう。「ストレスを感じずにコミュニケーションを取る方法」は、すべてのコミュニケーションを「民族コミュニケーションである」と捉え直すことである!

いまこの文章を読んでいるお前も、もしかしたら今「プロ奢ラレヤーの言っていることは何処かの少数民族が言っていることくらいに捉えよう」と考えているかもしれない。それだ。それが民族コミュニケーションの正体である!

つまり、「前提をハックする」のである。ぼくとお前はおなじではない。ぼくとお前はまったく別の文化をもった、まったく別の民族なのだ。そして、そんな決して交わることのない2人がコミュニケーションをとる。なにか重なる部分がひとつでもあれば、それは素晴らしいことだし、もしもひとつも重なる部分がなくても、それはある意味当然である。ちがう民族なのだから。

しかし、多くのひとは無意識にこの逆をやっている。つまり、前提が「ぼくとお前はおなじである」と置いている。こうすると、おなじことが「当たり前」であり、違うということが「当たり前」でなく、さらに場合によっては「不快」にまでなる。こうなると、「共感」をベースにした、表面的なコミュニケーションが主流になるのも頷ける。とにかく、「おなじである」が前提のコミュニケーションは取れる振れ幅が狭いのだ。それはちょうど「電撃イライラ棒」のそれに似ている。まちがいの許されない、まちがえばすぐさま鉄の棒に電流が走るような、神経を消耗するコミュニケーションなのである。

ぼくは遅刻をすると「喜ばれる」。そしてなぜか、予定をドタキャンしても「喜ばれる」。おそらくこれは、相手がぼくのことを「マサイ族くらい自分と離れた価値観をもった民族かなにか」というような認識をしており、それを理解したうえでアポを取っているからだ。だから、「ちがう」ことが許されるし、場合によっては喜ばれるまである。

つまり、なにが言いたいのかというと、お前もだれかと接するときには「相手は遠い世界のまったく違う価値観をもった、少数民族の一員だ」くらいに認識しておくとよい。これが無敵のコミュニケーション術だ。

これによって、ちょっとしたことで相手にイライラするようなことは少なくなっていくだろう。なにかひどいことを言われた、と思っても「そういう民族の歓迎方法なのか?」と考えればよいし、なにかひどいことをされても「この民族なりの愛の表現なのか?」と考えればよい。お前はいつも少数民族に社会科見学しにいっているのである。

「私たち、ちがう民族だし仕方ないよね〜。わかりあえなくて当たり前だよね〜。え〜すごい〜、キミも朝に起きて夜に寝るんだ!すごい!ごはんも3食なの!?おなじじゃん!」くらいの解像度で人間関係を捉え直すのだ。こうすれば、嫌味ったらしい女友達にイラつくことも、毒親のネチネチとした説教に落ち込むこともない。とりあえず口では「へぇ〜そうなんだ〜」「なるほどね〜」なんて適当なことを言っておけばよい。当たり前だが、あえて相手を刺激する必要などない。

この「民族コミュニケーション」の概念をインストールしたお前は、もうコミュニケーションにおいて無敵になった。最強ではないが、けしてダメージを負うことはない。なぜなら、相手の投げるすべての言葉を都合よく解釈できるようになったし、さらには相手の主張からも「へぇ〜キミのとこはそういう文化を採用しているんだねぇ〜」と一歩引いてコミュニケーションを取ることができるようになった。これが重要なのだ。ひとが「コミュニケーションに失敗する」のは、たいてい距離感をまちがえたときである。そして、それは近付きすぎないことで殆どが解決できる(ぼくは男女の問題や、家族の問題は苦手です)。

民族コミュニケーションという概念は、コミュニケーションによって感情的になることを抑制してくれる。冷静になって取り組めさえすれば、ほとんどのコミュニケーションは安全なのだ。焦らずに、相手の文化を、一歩引いて離れたところからそっと観察する。なにか言われても「そういう民族なんだ」として気にしない。相手をマサイ族か何かだと考える。なにかじぶんと共通項があれば奇跡であり、それがないのが当然だと考える。

大丈夫!コミュ障のお前にも「守る」ことならできる!攻めなくていい!合わせなくていい!とにかく離れて、ときが来るのをじっと待つのだ!

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