見出し画像

冒険について考える 〜あるドイツ人家族の物語~

2016年・夏、ある家族が知床を訪れた。彼らの目的は、40年前・1976年の夏に知床で遭難したドイツ人青年ゲロ・シュミット氏(当時24才)の慰霊であった。

「長い年月が経った。全ての疑問に答えが出ないのは承知している。ただ、私たち家族の長い物語のページを閉じるためには、ここに来る必要があった。」


1976年 遭難

事故当時の情報を整理すると、遭難発生は1976年8月12日だったらしい。ゲロ氏と友人のゲオルク・シラー氏(当時29才)の2名のドイツ人が、知床連山の縦走の途中、南岳周辺で悪天候につかまり、帰らぬ人となった。

昭和51年11月21日の新聞記事

ところが、この遭難が発覚するのには少し時間がかかった。なぜなら彼らの足跡は8月7日に大雪山・黒岳を登ったところで途切れており「行方不明」扱いになっていたのだ。西ドイツ(当時)大使館からの捜索依頼を受けて10月12日に公開捜査が行われると、パスポートなど貴重品が入った荷物が、ウトロの赤木神社に残置してあるのが発見された。荷物が警察に届けられたのが10月20日であった。
この頃、ドイツの家族が受け取っていた大使館からの報告は、なんと「東側に拉致された可能性がある」だった。

ここから家族の混迷が始まる。

当時を振り返れば、国際情勢は東西冷戦の真っ只中。この年の9月にはソビエト連邦の戦闘機・ミグ25が函館空港に緊急着陸し、パイロットが亡命する事件があった。知床はソビエトとの実質的な国境から数十kmの距離にあり、西ドイツ大使館が国際的な誘拐事件を想定したのも無理からぬ時代であった。

それにしても、家族の動揺は想像を絶する。自身も鉄のカーテンに分断された西ドイツに住み、緊迫した世情を肌で感じながら、見たこともない遠い異国の地を旅している息子が、国際的なトラブルに巻き込まれていると大使館から通知されたわけである。為す術なくうろたえる家族の姿が目に浮かび、胸が痛む。

見つかった荷物にあったメモなどから、8月12日に知床連山に向かったことが発覚し、11月になってから大規模な捜索が行われた。しかし手掛かりは発見できず、すでに連山には雪の時期になったため、この年は捜索を終了した。翌年 の登山シーズンには、行方不明となった2人の情報提供を呼び掛けるチラシが登山口にある山小屋などに掲示されたが、新たな情報は寄せられなかったという。
当時の新聞記事には、斜里署のコメントとしてヒグマの危険性などが掲載されており、この頃、ドイツの家族が受け取っていた報告は「登山中にヒグマに襲われた可能性がある」であったそうだ。家族の混乱はさらに深まっていった。

1979年 遺体発見

事態が動いたのは3年後であった。1979年8月17日、知床連山を縦走中の札幌の山岳グループが南岳付近の沢で人骨を発見したのだ。人骨は白骨化しており、頭骨や胸骨などほぼ1体分が沢内に散乱していたという。行方不明のドイツ人青年の遺体であることが想定されたため、収容にはヘリコプターが動員された。
遺体はゲロ氏であった。
遺留品の腕時計は、主が亡くなった後も時を刻み続け、その誤差は6分程度だったそうだ。その後、残るゲオルグ氏の捜索が2回にわたって行われた。斜里山岳会をはじめとする関係者の精力的な捜索活動により、ついに南岳付近の洞窟の中で、うずくまった状態で白骨化したゲオルグ氏が発見された。国際問題の可能性をはらんだ行方不明事件は山岳遭難と結論付けられ、関係者は胸をなでおろしたことだろう。3年の時を経て、2人の遺骨は西ドイツの家族のもとに送られた。

当時、家族の混乱を鎮めるために、捜索に参加した山岳会員O氏は、捜索の様子を記した新聞記事を送り、家族と手紙でやり取りしたという。家族が記憶するのは旅立ちの日の元気な息子の姿であり、彼の死を納得するのは、とても深いプロセスが必要であったと思う。O氏との書簡のやりとりにあふれる悲しみ、悼み、追憶、そして感謝の念は、言葉の壁を超えて、確かに共有されていた。

昭和60年7月5日の新聞記事

遺体が上がらない山岳遭難も多い中、時間はかかったが遺族のもとに遺留品が送リ届けられたのは幸いであったと言える。一件落着、と記録上片づけられてもいい終り方である。少なくとも日本側はそう思っていた。

しかし、家族の物語は、簡単に閉じられることはなかった。我々は、人が死ぬということ、愛するものを失うということの重さを40年後に知ることになった。


 

40年目の旅 

2016年9月1日、知床自然センター2階の会議室に、慰霊の一行5人と、O氏ほか斜里山岳会の数名が集まった。

彼らは自然センターにやってきたO氏を、すぐさま見つけることができた。もちろん初対面だが、当時の資料写真で見ていたO氏の顔は、彼らにとっては懐かしいものであったようだ。思い出話に花が咲き、語らいは2時間にわたった。それは、とても楽しく、そして時折切ない時間であった。

 

既に没している両親は、折りに触れ息子の死に関する幾つかの謎を語り続けたという。なぜ登山経験豊かな彼らが軽装で入山したか、目撃証言の不整合、死因に関する不明瞭さ・・・。母から娘の家族に語り継がれたものは、疑念や憶測、知床という地名、いつかその地に行って謎解きをしたいという思いであった。それらを解きほぐす幾多の質問に、O氏らは一つ一つ応えていく。答えを聞き、家族は顔を合わせて、何かを語りあい、また次の問いかけをする。

「この事故は、若者の冒険心が引き起こした、ごく普通の遭難だとお考えですか?」

最後に家族が投げかけたこの質問に、O氏は[そう、、思う」と短く答えた。その答えを聞いた瞬間、家族の間に、なんとも言えない空気が流れた。疑問が晴れた安堵か、亡きものたちへの無念か、不安に過ごした日々の回想か・・・。

物語が閉じられた、その場に立ち会った気がした。

 

翌9月2日から、1泊2日の行程で、5人と斜里山岳会のサポート2名が遭難現場の南岳を目指し入山した。
結局、南岳まではたどり着くことができなかったが、家族は三峰山頂から遭難現場の方向に連なる知床連山を望み、祈りをささげた。
慰霊登山は終わった。
しかし、家族は新たな物語の1ページを刻んだように思う。

慰霊登山の際に持参したプレート


冒険について

 

この旅に関わって思ったことが2つある。

一つは、山で死んではいけない、ということ。特に遺体が残らない形では絶対に。我々生きているものは、必ずいつか死ぬ。野生動物であろうと人間であろうと、死はあらゆる生命に共通する理であり、命の定義でもある。知床で暮らしていると、様々な生き物の死に立ち会うことがあり、ヒトが何ら特別でないことを実感する。すべての命と等しく、死は必然であり自然である。
ただ、ヒトの死が他と違うとすれば、命が失われた後にも物語が流れ続けるということかもしれない。
愛するものの死は受け入れがたい。死を司る葬儀の様式はどこの国でも決められている。それは、呆然としている遺族がその様式に体を浸すことによって「あの人が死んだ」ことをだんだんと受け入れられるようにする知恵だと思う。どうやら我々は、自身の死後も愛する者の中で生き続けるようだ。そうであるならば、生きているものの務めとして、遺体が出ないような死に方はしてはいけない。登山届を書き、その痕跡を残さなければならない。死に直面しても最後まで諦めてはならない。書いてしまえば、当たり前の登山の心得であるが、やっと本当の意味を理解した気がする。必ず生きて帰ることを誓って、また山に向き合いたいと思う。

 

 

もう一つの思いは、亡きドイツ人青年への共感と尊敬だ。

遭難は悲劇であり、残された家族の物語は重い。決して事故を繰り返してはならない。

しかし、登山はそもそも危険な行為であり、故に自分が一個の小さな生命に過ぎないことを学ぶ素晴らしい機会を提供する。登山が国を超え、時代を超え、普遍的な価値を持つのは、そもそも「危ない」からだと思う。私はだから、危険に踏み出そうとする冒険心を応援したい。
彼らは、冷戦まっただ中のきな臭い時代に、立ちすくむのではなく、まだ見ぬ世界を目指して旅にでた。時代に向きあおうという凛とした気概を感じる。ゲロ氏は、冒険心に富んだ素敵な奴だったに違いない。40年前、そんな青年が日本にわたり、知床の地を目指したのだ。知床について何の情報を得て、どんな憧れを描き、なぜ連山に登ることを決めたのだろう。誰かが知床の素晴らしさを語ったのだろうか、実際に訪れた知床は彼の目にどのように映ったのだろうか。

今日も知床には多くのビジターが訪れる。一見準備不足な若者が、羅臼岳の登り方を聞いてくることもある。とても心配だが、出来る限り彼らの冒険心を尊重したいと思う。豊かな自然は、当然ながら危険も含んでいるのだから、冒険心なくしては、知床の本質に触れるチャンスはそう多くない。知床は危険で美しく、なかなか行けない地の果てであるからこそ、40年前も今も、旅人の憧れの地なのだ。知床がゲロ氏のような冒険者をワクワクさせる憧れの地であり続けること、それこそが彼らへの慰霊であり、我々の成すべき仕事だと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?