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20周年特別インタビュー(16)夏目雅也×黒木陽子<前編>

『プロトタイプ』公演の関連企画として、公演期間中にインタビューの公開収録を実施しました。お話を伺ったのは、衛星旗揚げメンバーでもある夏目雅也さんです。夏目雅也さんは舞台監督としてご活躍中で、衛星には旗揚げから96年5月まで在籍してらっしゃいました。

この公開収録は、9月1日20時の回の開場までの時間を使いまして、黒木がインタビュー、植村も同席して行われました。

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現在のお仕事について

黒木:現在のお仕事を教えてください。昨年はドイツに行ってらしたんですよね?

夏目:現在は、舞台監督をしています。昨年一年間は、ベルリンに住んでいました。Sasha Waltz&Guests(サシャ・ヴァルツ&ゲスツ)というダンスカンパニーで一年間働いていた。…というか、在外研修で遊んでいました(笑)。僕は家族で行って…、ドイツで子どもも生まれました。

黒木:ええ!お子さんも生まれたんですか?その話も詳しく知りたいです。

夏目:ははは。それだけで、一時間くらい話すことになるけど。…たぶん在外研修で行った人で初めてじゃないでしょうか。

在外研修をこれからする人には、家族で行くことをおすすめしたいです。芸術団体の仕事に専念するというのが、研修の意義としては正しいのかもしれないけれど…。家族で行くと、より、その町で生活している感が出てきますから。うちは、まず子どもを生まなきゃいけないから、病院を探さなきゃいけない。あと、上の娘が2歳になってすぐだったんで、せっかく行くんだから保育園に入れようと思って。ドイツ語の書類とかいっぱい書いて、楽しかったですね。

一年そうやって過ごして、日本に戻ってきました。今は、演劇もやるけど、ダンスの方が多いかな…という感じです。


衛星前夜

黒木:「どうして俺にインタビューをしてくれないんだ」というメッセージを、植村にいただいたと聞きましたが…。

夏目:何か、僕って、案外京都の人だと思われてないんじゃないか。「京都の演劇の人」と思われてないのでは?という危惧がありまして。京都にいるぞ、というのをアピールしたくて…。というのは半分冗談ですけどね。なぜ衛星旗揚げメンバーである俺に依頼が来ないんだというのもあり。

黒木:そうです、そうですよね。夏目さんは、旗揚げのミーティングに集まった三人(※おもしろ略歴参照)のうちのお一人だったんですよね。蓮行と、夏目さんと、あと一人は存じ上げないんですが…

夏目:潔癖(※蓮行が93年に旗揚げした「潔癖青年文化団(現・劇団ケッペキ)」。以下「潔癖」と表記します。歴史表参照)で照明をしていた木村くん。今は、京都の某出版社で編集の仕事をしているんじゃないかな。…ちなみに植村さんは声をかけられなかったんですか?

植村:うん。聞いてなかったね。

黒木:腹が立ちますね。それは未だに

植村:根に持ってます。(笑)

夏目:当時は、何でも、思いつきで行動してたし。夜中に麻雀しながら決めてるっていうノリだったから。衛星の旗揚げも、夜中に天一とか行きながら、「よしやるぞ!」という感じで決めたんですよねきっと。で、みんなを呼んだつもりでいるけど、基本誰にも情報が行き渡っていなかったという。そして、当日集まって、3人だということに、「ああ…そうか…」とがっかりして。


<歴史の整理>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1993年 1月頃(蓮行1回生の終わり) 潔癖青年文化団立ち上げ

1993年 春 植村、潔癖入団

1994年 春 夏目さん、潔癖入団

1994年 春 蓮行、潔癖をやめる。

???  如意プロデュース設立(※植村注:最初は「創造結社如意」でした。)

1994年 秋 佐々木企画『狂育の果てに』(夏目さん初の舞台美術担当)

     如意プロデュースでライブ・公演制作等、色々と手がける。

1995年 2月 如意プロデュース自主企画『福音の廻廊』上演

1995年 6月 劇団衛星旗揚げ

1995年10月 衛星旗揚げ公演『ウォルター・ミティにさよなら(改)』上演

1999年 2月 有限会社如意プロデュース法人化

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黒木:衛星を旗揚げした時、潔癖青年文化団と何か軋轢みたいなものはなかったんですか?団員を引き抜くことになりますよね?

夏目:衛星は、他団体と掛け持ちしても大丈夫っていうスタンスだったので。プロになりたいんだったら衛星をやろうとして、旗揚げしたんですね。もともと潔癖も(蓮行さんは)そういうつもりで立ち上げたんだけれど、「学生劇団でやっていきたい」という人やいろんな認識の人がいたから。

黒木:わかりやすいですよね。プロになりたいんだったら衛星で、そうじゃなかったらケッペキでっていう。

夏目:まあ、それだけでは収まらないいろいろなことがあったとは思います。ある団体を割って出て行くという感じではあったので。…嫌われてはいたのかもしれません。

黒木:衛星旗揚げ前に、如意プロデュースの時代もあるんですよね…?

夏目:僕は、衛星旗揚げ後というよりも、衛星旗揚げ前夜の頃にすごくたくさん(蓮行さんと一緒に)仕事をしていました。うん、すごい仕事した。

黒木:その頃の事をお聞かせください。

夏目:大学に入って、潔癖に入った最初の公演で、新人は何もわかってないからとりあえず音響班とか舞台美術班とかに振り分けられるんですけど、僕は舞台美術班に入って公演をしたんです。で、それが終わった頃、蓮行さんに、佐々木企画という団体で『狂育の果てに』という公演があるから、舞台美術をやってくれと誘われたんです。僕はまだ、舞台美術が何をするのかもわからないような状態なんだけれども。蓮行さんが「俺が舞台監督やるから、やってくれ」と言われて。それで、公演の日が来て、「朝9時から仕込みをする」と言われたから、寮食(京大吉田寮食堂)に朝9時くらいに行ったら…誰もいない。

黒木:あははは!

夏目:結局、蓮行さんは、10時くらいに現れて。「どうしようか…」「どうしましょうか…」という状態から、仕込みがスタート。

黒木:あははは。ひどいですね〜。

夏目:それまでの寮食って、照明を天井に直で吊ってたんだけれど。ちょうどその頃、建物が傷んできたから、直で吊るのはやめようということになったんですね。それで、まずは照明を吊るための単管(※鉄パイプです)を組まなければならなかった。蓮行さんと、「これ、2人で組めるかな…」と相談するところから始まりました。人手を呼ぶという方法ではなくて、何故か、「どうやったら2人で組めるか」という方法を模索して…。でも実際、蓮行さんって下で支えるとかしかできない人じゃないですか。そういう2人で、どうやって単管を組むかという方法を…。

黒木:最終的にできたのはできたんですよね?

夏目:できましたね。装置が何なのかとか美術がなんなのかというのは、全くわからないまま、とりあえず芝居ができるスペースを作って。幕を吊って、床に黒パンチ(※パンチカーペットです)を張って、という状態にしました。そしたら夕方、演出の佐々木さんが、仕事終わりにやってきて、黒パンチを見て、「こんなものがあると役者が甘える!」「剥げ!」と。

黒木:え!でも、パンチですよね。リノ(※リノリウムの床。ダンスの床などに敷かれる、脚にやさしい床材)とかじゃなくて。

夏目:そう。でも、「剥げ!」って。当時は技術もなくて、平台をつなぐのも上からベニヤ板で抑えて釘を打ったりして繋いでいる状態だから(上に何か敷かないと)危ないんですよ。裸で転げ回るような作品だったし。それで、「危ないですよ」って佐々木さんに言ったら、「ガムテでも貼っとけ!」って言われて…。貼りましたね。それで、でも、後で佐々木さんが、「夏目くんすまんかった。これで、みんなで何か食べてくれ…」って一万円差し出されて…。あれ、どうしたのかなぁ。受け取ったんだっけ…。忘れてしまいましたけど。

黒木:いろいろすごいですね…。佐々木企画のお話は、入団した頃いろいろ聞いていたんですけど…。すごいです。

夏目:でも、芝居はすごくよかった。佐々木さんって、本番中も客席に座って役者にダメだしするんですよ。「もっといけ!やれ!」って。で、終演するとアンケートとかに「演出家らしき人がうるさかったです」って書かれる。

黒木:ええ!私が観た頃は、もうそんなスタイルではなかったですけどね…。舞台上はとても熱かったけれども…、客席は平和でした。

夏目:きっと佐々木企画での経験は、蓮行さんに影響を与えたんじゃないかと思います。それまでの学生劇団のテンションとは全然違っていて…。佐々木さん自身は、プロとかプロじゃないとか、そういうことを考えている人ではなかったけれど、芝居をしていないと自分の業を消化できないような人だったから。演劇をするのが趣味じゃなくて、「この人、演劇がないと生きていけないんだ」という人と一緒に仕事をするのが…楽しかった、じゃないな。…刺激的だったと思います。

死ぬんじゃないかと思うほど、舞台上で役者が相手役の首をしめたりしてたりしてたからね。岡嶋さんが苦しそうな表情してたら、(佐々木さんは)「もっとやれもっとやれ」って言ってたから。

黒木:はー。すごいですね…。それが、本格的に舞台に関わった一作目ということですか。

夏目:この公演、植村さんも関わってたんでしたっけ?

植村:私はこの公演で、初めて制作としての報酬をもらった。

夏目:そうそう。蓮行さんは、その時点で「俺らはプロになる」って。僕もその佐々木企画の公演でギャラをもらえました。五千円くらいだったかな…、そのくらいだったけど。

黒木:その後は…?

夏目:その後は、何かあれば全て関わっていました。吉田寮食堂ライブとかの舞台も全部僕が組んでいたし、山村さん(※山村たけゆうさん)の映画の撮影があれば連れ出されてたし…。そしてとにかく、毎晩、潔癖のボックスで麻雀してました。麻雀しては、夜中に「天一行くか」で、天下一品に行ってましたね。夜中の3時を越えたら天一は閉まるから、その場合はなか卯へっていう。その、麻雀したりした流れの中で、衛星の旗揚げの話もあった。

黒木:へー!意外です。蓮行さんに、同年代の仲間とワイワイするような時代があったとは…。

夏目:神戸の震災の後、週に2回神戸に通うっていうバイトも…、よく一緒に行ってましたもん。なんだかわからないけれど。(※ホステスさんを神戸から京都の自宅へ送るという仕事だったそうです。)12時とかに京都を出て、1〜2時に神戸に着いて、3〜4時に京都に戻るっていう。途中で寝ちゃうとダメだから、運転しなくていいから一緒に乗ってくれと言われて。

黒木:信じられない!今は男性と一緒にいないっていのが、蓮行さんのアイデンティティーみたいになってますよ。

夏目:まあ、3回に1回くらいは女の子なんだけど、3回に2回は、僕とか桐山さん(※中野劇団の桐山泰典さん)とか。

黒木:桐山さんも!!…青春だなー。


プロになる

黒木:「プロになる」いう蓮行の話は…、当時、どう受け止められたんですか?

夏目:そうですね…。佐々木企画の時に蓮行さんが僕に声をかけたのは、僕が一番プロになりそうだと思ったからだと思う、…多分。僕もこれを仕事にするつもりだったし…。蓮行さんも、ずっとその話をしてましたね。

黒木:植村さんは…?

植村:私は大学入った時から、最終的にプロになるつもりだった。それがこの劇団でできなければ、卒業したら東京に行こうかとか思ってたけど。今いる場所でプロになれたらそれで万々歳だなっていう。

夏目:僕は将来のビジョンとかは無かったけれど…、とにかくこれを仕事にしたいとは思っていて。蓮行さんは、何でもかんでも手がけていたから。映画とかライブとかの現場は全部、「手伝ってくれ」と言われたというより、「次の寮食ライブはいついつだから」と知らされる感じでしたね。それで、お金がある時はお金をくれるし、お金がない時はなか卯の牛丼で。だから僕は今でも、蓮行さんに20杯くらい牛丼の貸しがあります。

黒木:なか卯はゼンショーチェーンなんで…、今は松屋だと思いますけどね…。(※このあたりのことは、衛星の某作品を参照してください。)

夏目:当時、元田中のなか卯が必ず広告(※チラシの裏に載せる)をくれて。愛用してたんですよね。

黒木:如意プロデュースは本当にいろいろ手がけていたんですね…。いろいろイベントをやる時代があって、そして、衛星旗揚げがあるんですよね。

夏目:その前に、如意プロデュース自主公演がある。

黒木:(まだあるのか!と思う黒木)…ちなみに、それは、何で衛星でしなかったんですか?

夏目:衛星がまだなかったから。

黒木:ああそうか。(少し混乱する黒木)ちなみに、当時の如意プロデュースはどういう集団だったんですか?

夏目:制作会社でした。山村たけゆうさんの映画をやったりとか、寮食ライブをやったりとか。

植村:他の劇団の公演のプロデュースとかしたり。いくつかやったよ。

(誰がいたかな…となる夏目さんと植村。あの人はここでいなくなった、私が○○さんを連れてきた。と、私も知らない人の名前がたくさん出てくる…。)

夏目:でもまあ、蓮行さんは当時から事務所を構えることにこだわっていたよね。

植村:潔癖もわざわざボックスをつくったし、如意プロデュースも近衛(※京大病院あたりの通りの名前です)に事務所があって。

夏目:僕らが入った時点で事務所があったもんね。小さなマンションでしたけど。

黒木:その、会社(※植村注:当時は任意団体でしたが)でお金を稼いで、劇団をしようと思ったんですかね?

植村:いや、劇団は創造団体だから。

夏目:劇団は劇団で別ですね。

黒木:劇団があって、劇団が売れてきたから会社を作るっていう順番じゃないんですね。

夏目:蓮行さんは、初めて会った時から、…今でもそうだと思うけど、ずっとお金のことを言ってました。お金を…きちんと、みんなが生活できるくらい、お金を稼ごうっていう。それで、細々とだろうけど、寮食ライブとかをやって、稼いで…。といっても知れてる額だと思うんですけど…。その中から僕らにも、数千円程度だけどギャラを出すっていうことを、ずっとやられてて。それで、衛星は衛星として旗揚げしたんだよね。

黒木:それで、旗揚げ前に、如意プロデュース自主企画『福音の回廊』(95年2月)の公演があると。

夏目:会場は、吉田寮食堂で。すごくいい公演だったな。みんな真剣でしたよね。集中力の高い公演だった。あの作品は、壮大にナンセンスでしたね。あのころの蓮行さんの作風好きだったな…。


衛星旗揚げ後

※衛星旗揚げまで辿りついていないこのタイミングで、『プロトタイプ』開場時間が迫ってしまう。

黒木:すみません、まだ衛星旗揚げまでいけてないんですが…、タイムアップが迫っておりまして…。衛星旗揚げ後は…どんな感じでしたでしょうか?

(以下、過去の公演チラシを見ながら駆け足気味にお話しいただきました。)

夏目:はい。旗揚げ公演『ウォルターミティにさよなら』(95年10月)では、出演してますね。あと、装置もしています。

で、次の月は、これをやりました。『解説』(京都大学11月祭にて上演)。この時は僕と、蓮行さんと、大西さん(あまきぎんさん)と、植村さんと4人でやりましたね。舞台上で、単管の組み方とかを実演してみせて、最後は大西さんが舞台上で生着替えをするっていうオチだったと思います。

そして、(次のチラシを見て)あー。毎月公演をするぞってなっていたのに、この頃早くもネタ切れ。

黒木:お茶会(『衛星茶会』95年12月)。これ、本当にお茶会…? 夏目さんは亭主をつとめられてますが、お茶をやってたんですか?

夏目:ちょっとだけね。ちょっとだけお茶の心得がありまして。それで、なぜか茶会をしました。和菓子も、ちゃんと出しました。なんか、すっごい、ちゃんとやったと思う。立礼で(※腰掛けにお客さんが座る茶会の形式です)。

黒木:そしてちょっと空いて、96年5月に『総理保科仙吉』。

夏目:この公演が、僕が衛星にいた最後の公演だったと思います。

植村:潔癖時代からここ(保科仙吉)までっていうのが、一つの流れがあったんだよね。この公演で、300人動員した。

夏目:とにかくこの公演は、すごいお客さん入りましたよね。5〜60人入る客席に、120人くらいお客さんを入れました(※劇団公式記録としては80席に170人)。オペさん(照明や音響を操作するスタッフ)が立っているその横にも、お客さんが立っているっていう。最終日には、話にならないくらいお客さんが入って。大変だった。

植村:票券管理も何もしてない時代だったからね…。

夏目:そう。そして、この公演ではチャック(※チャック・O・ディーンさん。インタビューを参照ください)が現れてね。公演直前の入団説明会にやってきたんだよな…。で、公演にちょっとだけ出そうということになったんですが、当日に長靴を履いてやってきて…。俺の靴を貸してあげた記憶があります。文部大臣かなんかの役だったかな?

黒木:衛星をやめられたのは、何かきっかけがあったんでしょうか?

夏目:やめたわけではなくて…なんとなく離れた。やめた後も、岡嶋(秀昭)さんの家に発電機を取りに行く仕事は、俺の役目だった。(※植村注:野外公演の時などは、電気工事の仕事をされていた岡嶋さん家にいつもお世話になっていました。)当時はもう、自分の劇団(※夏目組)を持ってたし。

植村:そろそろ受付開始時間やわ…。

夏目:あー。もっと面白い話があったのに…。「学生部との戦い」とか。まだあるんだけどね。

黒木:えー。聞きたいなあ!終演後、よろしければお聞かせ下さい。

夏目:是非是非。

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そんなわけで、インタビュー公開収録としてはいったんここで終了。自分が思っているよりもはるかに衛星旗揚げ前夜の様子を知らなかったことにびっくりです。

そして、上演後もお時間をとっていただくことになり、まだまだ知らないお話が出てくるのです……。

>>後半へつづく

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