善意を催すとき

電車で席を譲りたくて、なんて言おうか逡巡しているうちに隣の人が席を譲ったとき、もやもやが残る。

その感情が僕自身の優しさに由来しないことに
気付いたのは中学生の頃。

道端のゴミを拾えなかったとき、感謝の言葉がとっさに出てこなかったとき。

優しい人間であろうとしている訳ではないが、
"できなかったこと"に対してしこりが残る。

僕の場合、"何かしなきゃいけない"という感情が発生して、思った通りの行為を遂行するという形でその感情を排出できないとストレスになるらしい。

あるいは僕の全ての「優しいとされる行為」が、
こうした感情の排泄欲によって駆動されているんじゃないかと思う。

そう考えると、汚い言葉で申し訳ないが、
僕の中の善意はもよおす液体のような存在で、
何かできずにしこりが残るのは感情の便秘のような状況だろうか。


僕が感情に自覚的すぎるだけで、善意を排泄するという行為を他人も無意識にやっているだけかもしれない。

少なくとも、僕の中のいわゆる"優しさ"が、そういう自分の欲望であってもいいと思っている。

淡白な人間であったとしても欲に忠実な方が他人に優しさを振る舞えるだろう。


問題は、優しいとされる行為を僕がどういう理由で行なっているか、ではない。

善意を排泄する(優しくする)ことに貞操観念があり、自ら禁欲を科してしまうことだ。


最近の子どもは正解が分かっていてもそれを挙手して発表したがらない傾向にあるようで、たぶんそれに近い。

僕が小中学生のときも何故か散乱したトイレのスリッパを整列させていたけれど、人前では決してやらなかった。(妖怪みたいな奴だな)

他人から凄い偉いと思われかねない状況を避けようとする。

たぶん僕が嫉妬深くて、僕のそういう感情は世間一般に同じだという誤解があったのが原因だと思う。

欲に自覚的な自分自身から偽善者と呼ばれることが怖かったのかもしれない。


満たせない善意が溜まって破裂しそうになったとき、どんなことが起こるのかは想像がつかない。

そうなった人がいるのだろうか。
まどマギの青髪の子はその象徴だと思う。




人の消えた世界や人がゾンビ化した世界ではかつての悪事をやりたい放題というSFがあるけれど、
そういう人目のない世界なら僕はかつて善意だったものを気兼ねなく満たしているかもしれない。

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