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最後の元大名と神機隊

え?最後の大名って、浅野長勲じゃないの?

林忠崇(ただたか・21歳)は、総国請西藩(じょうざいはん・千葉県木更津市・一万石)藩主だった。鳥羽伏見の戦いあと、旧幕府(徳川将軍家)を追いつめる新政府に反感をもった。
藩主の忠崇みずから脱藩し、藩士70名らと共に、旧幕府の遊撃隊に参加した。幕府海軍の協力を得て、館山から相模湾の沿岸に上陸し、小田原、箱根や伊豆などで新政府軍と激しく交戦する。

このころ、芸州広島藩の自費出費で320人が参戦した「神機隊」は、上野戦争、飯能戦争のあと、会津に行く予定だった。ところが、江戸城の総督府・大村益次郎(長州藩)から、
「林忠崇の強い遊撃隊が、最新型のフランス銃を装備したうえで、小田原から御殿場を経由し、甲府に向っている。討伐してきてくれ」
と派遣を要請されたのだ。

懇願に応じた神機隊が甲府、さらには高所の三つ峠を越えて河口湖周辺まできてみた。さらに、山中湖まで足を延ばしてみるが、林忠崇たち遊撃隊の形跡がまったくなかった(忠崇は奥州戦争にむかっていた)。

神機隊は江戸城まで戻ってくると、総督府総帥参謀の大村に対峙し、
「がせネタで、無駄足をさせてやがって。わが神機隊は自分たちが集めた自費で参戦しているのだ。弁償しろ」
と上から目線で、六千両を脅し取っている。

毛利家祖の元就は、広島藩から戦国の雄になった武将だ。さらに、幕末・明治維新まで、芸州広島藩の浅野家(42万石)が、朝敵にもなった長州藩毛利家(36万石)よりも、つねに優位性を保っていた。
そんな背景から大村は、神機隊の隊員・軍備搬送として江戸湾から平潟(茨城県)まで、長州藩の軍艦までも貸与させられている。
 
明治に入ると、元藩主の林忠崇は脱藩・反逆の罪で平民まで堕ちたうえ、極貧の流転続きであった。実に、気の毒だ。
昭和12年(1937年)に旧広島藩主・浅野長勲(ながこと)が死去すると、忠崇が最年長の『最後の元大名』となった。

穂高健一ワールド
晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ② より
更新日:2021年11月20日


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