風。そして?

「風にあたる」山階基
2019年・短歌研究社

 同じくらい、「雨に降られる」歌集だと思う。

濡れていく肘をあきらめ閉じてやる傘のかたちに消える雨音 
山階基「風にあたる」

 ほぼ、ひとつの連作に一度は降っている。予報は外れるし、ずぶ濡れでの引っ越しだし、旅の計画を邪魔してくる。落ちてた気分に追い打ちをかけてくるし、なんなら画面の中でも降っている。これだけ降るとどうなるか…というと、降ってないときは〈すごく降ってない〉感じになる。雨が止んでしばらくして、たとえば原っぱに風が吹く。すずしい。

  ほっといた鍋を洗って拭くときのわけのわからん明るさのこと
  対岸の花火いつしかマンションにへだてられると知っていたなら
  缶コーヒー買って飲むってことだってひとがするのを見て覚えたの
  冷房がきらいだと言うときすでに夏はこちらへ手をのべている
  見切られたなにかをさがしスーパーのさかな売り場で素足が冷える

 最初の5首と最後の2首くらいを引けば、「風にあたる」がどういう歌集であるか…のだいたいの説明はついてしまう。〈明るさ〉が始めにあるのではない。〈ほっといた〉ら当然汚れていた鍋を〈洗って拭く〉ことで光に出会える。別に鍋だけじゃない。ほとんどのものはそうだ。人の考え方だってそうか。そのうちに曇っている。なので〈拭く〉。そうして物事は変化していく。馴染みのあった光ですら、建ったマンションで見えなくなる。でも誰も悪くない。全員に、日々の都合や工夫がある。それを〈缶コーヒー〉みたいに参考にしていく。〈冷房〉はちょっと苦手かな、等を言葉にしていく。あるいはしておく。〈冷房〉も「風」だ。「風にあたる」。どの風が好きか。合わないのはどれか。それを淡々と分かっていく。ちょっと今回は合わないほうの風にあたりつつ〈スーパー〉にいる。歌の場である生活空間に、作者は降りていく。
 …「説明」ならこれでつく。でも、初出時にはあった、

  今のまま生きるのがしんどいどうし都会に部屋を借りようなんて
  うちを出る? はてなを顔にしたような母よあなたに似たわたしだよ
(「短歌研究」2016.09 掲載版「長い合宿」)

 が同名の一連には含まれていないことから、作者がしたいのは「説明」ではないような気もする。さらには、〈はてなを顔にしたような〉といった、僕には卓抜とした「母」の比喩に思えるものですら歌集からは外されていて、これは予想でしかないけれど、歌材にされた本人がたとえばその歌を読んだ際どう思うだろうか…というところまでを含めて作者は、一首の成立/不成立としている気がする。〈? みたいな顔〉は、どうだろう。「あの子、そんなこと思ってたのか」を僕が「母」ならギリギリ、思うだろうか。

  菓子パンの袋を手のひらで圧してぼくたちのためだけの号砲
  ビル風に染めっぱなしのばさばさの髪をひたすら吹かれて笑う

 おそらくそんな配慮の先に、こういう他者の書かれ方がある。完全に他人、が【駐車禁止の柵に凭れて黙りあう冬のすずめのような学生】のようにボコっと詠まれているのはこの一首くらいだ。登場人物たちにとって(もしかしたら)よい思い出話に昇華されていそうな物事…を、少なくとも歌集という形においては残す。その陰で、省みられたゾーン、にはあるのかもしれない「はてなを顔にしたような」などの言葉のことを思う。

  三基あるエレベーターがばかだからみんなして迎えに来てしまう

 この歌にはびっくりした。「ばか」という規定には、「風にあたる」の世界をはみ出す〈やさしくなさ〉があるように感じたからだ。

風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける 
笹井宏之「てんとろり」

 山階作品における〈やさしさ〉や「風」に、この一首以降の世界、を強く感じる。数万の、と笹井がくくった「夜」を、ひとつひとつにほどいていく。そこでの「風」を書く。

  汗ばんだ肌着のシャツはずり落ちて扇風機から風を逃した
  このなかのだれも風力発電の羽根にさわったことはないのに
  夕闇にしずむこの世のおみやげに吊るしたシャツは風が抱き取る

 そこで生じる〈やさしさ〉は、「風にあたる」においては漢字にすることもできたうえでのひらがな、という形で表れることが多い。お土産、ではなく「おみやげ」なこと。無駄だな、でも終われるうえで〈馬鹿〉だと、馬鹿だな、でも終われるうえで「ばか」だと、思ってみること。単に奇妙なエレベーターが、そこでキャラクターを手にする。対象への〈やさしさ〉は、わざわざ時間をかける、その手続きを経て達成される。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
中澤系「uta0001.txt」

ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 
木下龍也「きみを嫌いな奴はクズだよ」

 おそらくこういった歌を極北に持つ〈やさしくなさ〉と「他人」の抒情は、2010年代の短歌においての一つの潮流であった。で、潮目の変化は済みつつある。山階作品の〈やさしさ〉と「他者」の歌に、それを思う。

髪に雪すべらせながら焼きいもの熱にくもった包みをひらく
湯上りのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない

 山階作品でひらがなを見かけると、食欲が戻ってくる感じがする。「かやくごはん」「さばのみりん漬け」「なめこ汁」みたいだ。それは同時に、欲を失っていた自分へ驚く体験でもある。〈焼き芋〉ではなく「焼きいも」なことに、分かってるなぁ、となる。「くせ」「はずかしい」「もめごと」が全て漢字変換された場合の途端に深刻な様子は、想像が容易いだろう。そこが私たちの生きている「昼」の世界だとして、「風にあたる」の〈夜〉を読むときに戻ってくるなにかは、たぶん食欲だけではない。

  真夜中の国道ぼくのすぐ先を行くパーカーのフードはたはた

 一首選ぶならこれだ。「風にあたる」が手にしたひらがなは、最終的にはこの「はたはた」だと思う。用事からの帰りなのか、行く途中なのか、友だちか恋人か、グループか、こちらには説明のない「真夜中」に、雨降りでもなく、風が揺らすフードと、立ちこぎが見える…と思ったところで、一首には「自転車」が書かれてはいないことに面食らった。歌集世界の【ぽろぽろと坂をこぼれる自転車のみんなおでこを剥き出しにして】と【さかさまにペダルを漕げばあともどりできる白鳥ボートはすてき】の〈あともどりできない時間〉と〈みんな〉と〈自転車〉がくっついてきたのかもしれない。真夜中「の」、国「道」ぼく「の」すぐ先「を」、行くパーカー「の」、とO音で揃えられた読み味が、強風の中での立ちこぎの、足の裏の感触を思い出させる。からの、フー「ド」→〈はたはた〉に、弾けるようなハッピーエンド感がある。

  くちぶえの用意はいつもできているわたしが四季をこぼれたら来て
  炎天にうねるホースのしぶきから生まれる虹を消えるまで好く

 歌集の最後の2首はこれだ。くちぶえも「風」だし、「わけのわからん」明るさも、花火も、友だちとの時間も、そいつとの暮らしも、木造も、とれかけたボタンも、バンドも、ホットケーキも、いつか消える。消えるまで「好く」。 



◯「息継ぎ」メモ

「冷房がきらい」だったり、「花火」が前ほどは見えなくなっていたり、といった「夏」が梨→冬の上着、と続いていって「雪」で終わる二十首。

言いかけて漕ぐのをやめる自転車がきりきりと鳴るあいだ訊けない
さかさまにペダル漕げばあともどりできる白鳥ボートはすてき

自転車(を連想させる歌、も含み)が詠まれたこのくらいの効きの歌が、後の「はたはた」の歌で「これはもう自転車に乗ってる歌」と思わせてきたのかも。

◯「炎天の横顔」メモ

「修正液」「おろしたての服」「パーカー」「ティーパック」「靴」「シャンプー」「Suica」「牛乳パック」「梱包材(プチプチ)」など、ものを主役に詠んだうたが多い。自分が山階基、で思い浮かべる初手の歌はこの一連からの歌が多い。あるあるネタ、的な感じ方で読めるものが多いため、ここから新規に読者になっていける感じ。ここでも「寿命」と、命(の終わり)の話をしている。

渡る前に変わる信号おそらくは黄色の寿命がいちばん長い

コンビニの蛍光灯は休みなく働かされて殺されました/木下龍也「つむじ風、ここにあります」

感度をどう出力するか、の違いが分かりやく出てる

◯「長い合宿」メモ

けっこうぬかりなく、生家(来し方)→新生活(行く末) をやっている連作だな、と再読して思った。
「八月」と「祖母」「あの夏」で一連に引きこめている〈「わたし」の半径1メートルのもの〉以外のもの。太文字のテーマ、とかっても言うのか。

生き延びた「祖母」

キャラメルの紙の「母」&問うだけの「父」

眼鏡を外す「わたし」 とつないで、 最後 裸眼で見る「駅」の光で終わる流れがきれい。体調しだいでは泣いてしまうかもしれない。

木造は感じがいいね また地震きたら死ぬかね ふたりで かもね

ライトな口調だけど、自分はこれかなり大マジな〈生きる・死ぬ〉の言葉として主体が「ともだち」に言ったこと、とその瞬間、なんじゃないかと思う。で、この発話は「ともだち」には、関係性において初めて触れたギョッとする何か として響いたんじゃないか。そんな瞬間に立ち会えたような緊張を一首から感じる。

◯「ばかだから」メモ

【三基あるエレベーターがばかだからみんなして迎えに来てしまう】、【ひたすらに見守っているなりたくてホットケーキは丸になるのに】、そして【ぽろぽろと坂をこぼれる自転車のみんなおでこを剥き出しにして】がある一連。「ホットケーキ」は「菜の花を」の歌と対になる一首か。

「ごま油」や「暮らすほどではなく」などを読んだ際に気まずさをおぼえるのは、「そんなの、ごま油垂らせば中華「風」になるじゃん」や、「おもしろい島だなー」「暮らすほどではないけど」を当たり前に言ってしまう側としての自分、を省みらせる要素が一首にあるからだと思う。

缶にアイスキャンデーの棒きみの死を告げるのはきみではありえない

金魚や小鳥が死んだときなんかに、埋めた土へ子どもが「◯◯の墓」と書いて刺すことのある「アイスキャンデーの棒」と、「缶(かん)」の音が呼び込む「棺(かん)」が、「きみの死」へ連想が飛ぶ際のエネルギーになる。

「か」んにアイス
「キャ」ンデーのぼう
「き」みのしを
つげるのは「き」み…

のk音が、「つげるのはきみ」で止まったあと「ではありえない」の強い断定、に裏返るときの体感が怖いし、このような急さで訪れるのが「死」でしょ、の読み味としてはほとんど完璧の出来に感じる。すごいなー

◯「まどろみに旗を」メモ

印象的な「風力発電の羽根」があるためか、すごくアウトドアに感じられる一連。タイトルに「旗」とかあるし。草原!ともだち!自由になるお金!ラーメン!って感じ。風呂上りの歌や、「カットソー」を脱ぐ歌であったりと、宇宙人に向けた〈地球に来るとこういう楽しい1週間くらいを体験することができますよ〉ガイドを地球人として読む感じ。連作のどれかに住めるとすればこれ。

「岸」と「旗」、「はためいて」と「汽水」、「スクランブルのほとり」と「抱き止める」のような、〈水場っぽい語句〉+〈ガバッという動き〉のような取り合わせの歌が多いためか、吹いてる風、をすごく感じる。すずしい連作。
この一連でも一回は雨が降っている。

◯「寒い昼」メモ

「ペプシ」「モチベーション」「自動ドアなり」のような派手めな語彙を含みつつ、でもとても地味な感じ、っていう不思議な一連。タイトルが渋いからか?

「吹けば飛ぶモチベーションを小脇にはさみ」などの、この歌集にあると妙に浮くキャッチフレーズ的なものの出現も気になる。

「もしかして使い切る前に」

「添い遂げるだろう」などの、終わりの感覚、の歌はやっぱりある

アルコール噴霧器 の歌や「エスカレーター」など、ネットで知らない誰かが同内容のものをツイートしてたら、と思って読むとより異常さが際立ちそうな歌も見受けられるため、山階さんの名前がついた歌として読むことで破壊力が抑えられているのかもしれない。

一首を選ぶなら「菓子パンの」か。「食べかけのキャラメル」歌に連なるような、ちょっと楽しくなるコツ、の歌。

菓子パンの袋を手のひらで圧してぼくたちのためだけの号砲

結婚をすると会社が二万円くれるらしくて考えている/吉田恭大「光と私語」

「風にあたる」は〈コツ〉の、「光と私語」は〈しくみ〉の歌集だと思う。

「音楽を」の歌など、どのくらいの涙脆さを抱えた主体なのか、の感情の目方がわかるような歌も実はある。っていうと嫌な言い方だけど。山階さんの得意な書きぶりに加え、いろいろ新規展開している連作という印象。

◯「革靴と火花」メモ

怖い山階さん、の歌が多い。運命論、という漢語に初読時「大げさだな」くらいの感想だった「みんな好きに〜」の歌は、今読むと「勝手に生きて行くみんな」の「偶然も必然もなく、ただそうある」この世、を短歌のなかで書いたあと、二ヒリスティックに着くのか…と見せかけてそれでも落ちてしまう「なみだ」はあるでしょう、というようなところに着地する。ちょっとした歌だと思う。

ほか、「かあさんと〜」の歌のように、「読んだ人があれを思い浮かべられるかな」「ああいう気分に浸らせることができるかな」は一旦度外視して作ったような、自分が自分のために思った言葉、のような歌もポツポツ見かける一連。

◯「ちゃら」メモ

やっぱり一回は雨が降る。

◯「風邪と音楽」メモ

【ボトル缶まわし飲みしてうつる風邪ばかの数だけばかのひく風邪】の風邪、の向こう側を書いたような一連。に、別の人とライブに行ってからの帰りである自分。ライブ中のことも思う。毎日、ってこうだよなと思う。

またもや「橋」(岸)の例え。

◯「鉄橋」メモ

「菜の花を」がある一連。こう言う2泊3日がほしい人生だった、って画像つきで呟こうかな
「コーポみさき」前のインタールードのような、静かな連作。

◯「コーポみさき」メモ

新人賞の座談会で「あのように」読まれた一連、という印象が2020年の今はまだ強いけど、いまフラットな頭で、そして数十年後の読者に読まれる最終首の「風」がどういったふうに想像されるのか、を思うと涙ぐみそうになる。
その一首以外はおおむね、「短歌」が得意とする細部のショーケースって感じだけど、ここで透明な透明な祈りに手が触れていると思う。
雨の歌はある。引越しの日も土砂降りだったし、これは風や橋や岸や舟の歌集であると同時に、やっぱり「雨」の歌集であると思う。

◯「秋の手前に」メモ

「缶コーヒー買って飲むってことだって人がするのを見て覚えたの」の前段のような【いまヨガの魚のポーズ教わらずできたことなどあるのだろうか】がある一連。

◯「百年」メモ

「百年後」の「百年」、という時間で考えると、素敵っぽさを越えて突きつけてくるシビアなものがある。
「椅子」に座るだろう、別れた後のその人の、その人の時間。
「名前〜」は「バス停を〜」の実践編のような歌。

◯「夜の切手」メモ


納豆のパックをひらくつかのまを糸は浮世絵の雨になりきる 

●伊波真人っぽい

いっぽんの氷菓をひざで折るときの音がほしいよ真冬の夜に 

●自分の欲しいもの がかなりはっきりしてることで苦しむってのもあるんだろうな

冬晴れのひざのあたりに持ち上がる噴水に鏡を見せてやりたい 

●定型をはみ出る「見せてやりたさ」

鍋のふちにあてた火傷はほほえみの唇のかたちに手首にのこる

●いちばん「厚かましいな!」と感じた歌かも。

◯「風にあたる」メモ

「風」総決算、のような一連。

夕闇にしずむこの世のおみやげに吊るしたシャツは風が抱き取る

この歌で実質 終れる、のにそのあと数首つづくその数首、でまたものを思わせてくる。

くちぶえの用意はいつもできているわたしが四季をこぼれたら来て

四季をはずれた、ら人知をこえたものに「わたし」が変わってしまう=死後の「くちぶえ」 として吹く「風」のことか。

最終首「炎天に〜」で「炎天の横顔」に時間が戻ってくる。ホースのしぶきから生まれる虹→が消えるまで で書かれている「制限時間」は短歌定型のことだったり、人と人との仲の良い期間だったり、命だったり、で、それをこういった言い方で見せてくれたという感じ。

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10万円欲しかった!