あまい牛乳の回


冬、長くないですか? 海に来たけどおもしろくない日みたいな天気の空の下、海からも遠いし、前髪が目の前くらいまで来てるような元気の出なさがある。リアルな歌、切実な歌、うまい歌、真似がうまい歌、おもしろくない歌、そろそろさすがにおもしろい歌、ぼくにどう思われようが,ってただただそこにある歌 ふしぎな歌 強い歌 図々しい歌

過去にがんばって見つけて、好きになれた歌だけで「やっていく」楽しさがあって、っていっぽうで初めて見る歌を最後の文字まで読むときの〈トランプをめくる〉感じはまだまだかろうじてたまらないです。今月も歌を,送ってくれてありがとうございました。あと二回やろうと思います。


あまい牛乳おいしいねってあぶないな急にくるんだ前世の猫が/やぎ座


短歌が夜の川みたいなものだとして、足元を見ないで飛び石をぴょんぴょん行く、が〈読む〉だとしたら「あまい」と「おいしいね」のあとに「あぶないな」が来るなんて、と、足がびっくりできた歌でした。そりゃあー 書かれてることの意味が「あぶないな」なんだから、と言われそうですけど、それよりも前にこれは同意を求める 「ね」 と許可なく自分へ訪れたもの、への威嚇寄りの反応 「な」 という語尾の口調の「ね」→「な」の音の距離、そっから意味の距離が引き起こした足がびっくりする感じ、だと思いますね。

あまい牛乳を飲んでいたら【前世の猫】がこっちの頭に当たりそうなあぶない感じで来たのか(でも猫だからその攻撃性にも天井があって、たかがしれてる、の平和さ、たかがしることができる、安心感が読み味へ発生する、わけですね)、

「あまい牛乳おいしいね」って言いながら【前世の猫】があぶない感じで来たのか。ぼくは最初の方で読みました。「あまい牛乳」の甘さ、来ちゃう猫の唐突さ、「あぶないな」で出てしまった声、の「現世のわたし」と、〈問いと答え〉〈フリとオチ〉〈ボケとツッコミ〉みたいなことじゃない、出来事の垂れ流されてることでの空気の多さ、を感じたかったのでそっちになった、んだと思います。


エスキモーダブルソーダを2本食べ立ち上がったら午後5時2分/シロソウスキー


村上春樹作品の「僕」が町に繰り出す前とか、井戸から帰ってきたあととかに「バスタブ」に浸かったあと「シェイブクリーム」でヒゲを剃って「トニックウォーター」を塗り込んで、「ラルフローレンのポロ」に腕を通したら「綿のチノパン」を履いて「コーヒーを2杯飲んだ」りするのが毎回不思議なんですけど、(たてつづけに飲むものじゃなくないですか?)この「エスキモーダブルソーダ」はその不思議さをもう一つ二つ抜けて不思議でしたね。「コーヒー2杯」の場合思い浮かぶ「僕」ですらなく、すごく無表情な者の顔が浮かぶ。なのにやってることけっこう過酷という。

【午後5時2分】がこれからどこかへ繰り出せる時間である、ことで村上春樹の「僕」と条件が揃ってるぶん、「ネオ・僕」に意識がいく歌になったんだろうなーとは思います。これは、ぜひとも、根っこに実体験があってほしい歌だなーと思います。


明太子とたらこの違いがわからない わからないけど買うよ、たらこを/平出奔


大吉を引けばいいけど引かないと寂しさが尾を曳く、でも引くよ/五島諭『緑の祠』

の言い方でこれをいうなよ、となったあと、【大吉を引けばいいけど】と【明太子とたらこの違いがわからない】、【引くよ】と【買うよ】の魂の位相はほぼほぼ一緒だなって五島作品への目の向け方、が可能になっておもしろかったです。神格化を部分的に解除できた喜びっていうか。


春よりもわずかに早くやってくるおもしろサイエンスアート展/橙田千尋


なにかやらないといけないことがあって、なのにしてなくて、それでもそろそろさすがにやらないといけないな、とりかかろう、って時計みたとき20時40分だったら「21時から。」ってなんか決める、ときの「21時」まみれだと思うんですね。我々の生(せい)って。我々の生理って。

仕事って、人間が構成要素の最小単位のくせに非・人間的な何かで動くじゃないですか。「春からがんばろう」って人間が思ういっぽうで、なんかちょっと気持ち悪い「もう(ビジネスが)動いてる」、人間じゃないものが動いてる段階、ってのを書けてる歌だと思います。でいて、この「春よりもわずかに早く」はもう、あるあるに食いこんできだしてる体感でもあるというか。橙田さんがあるあるにしたというか。

「これを一番乗りで書けた」みたいなところでほんとうにこの人長けてるな!と思いました。