7月・一周忌・日記


(11万円  -  伊舎堂 仁)

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穂村弘に、「彼女が泣くとき、永遠を感じます。」と語る男が出てくるエッセイがある。自分は、ラッパーのLUVITが、KOK2019のMC紹介動画で「BASEさんは、試合で当たったらきっと『ガキは家に帰ってママのおっぱいでも吸っとけーぇ』って言ってくると思います」とBASEの声真似で言ってるときなんかにたとえば、永遠を感じる。

https://youtu.be/bqw-NWE6x4E

同じラップバトルからだと、UMBの2018で「お前、出身は青森か。おれの床屋の親父が青森だ。」と言った輪入道に「青森で髪切ってるのか。おれの町は青森の弘前、 桜が日本で一番きれいな町、」とオーソリティーが勘違いしたままラップを続けるところが好きだ。

https://youtu.be/RPaqWPr9gq8

そんなもの永遠……とはちょっと違うのだろうが、(そして我々にとっての「永遠」は〈永遠とはちょっと違うのだろうが〉のようにしか感知し得ないものだとも思う、)この世に生きている人間にしかこんな会話は、そしてこんな勘違いはできない、という気持ちは〈永遠〉のようにギラギラと強い。

国分寺の寅゛息子食堂の前でこのあいだ22時くらいに「おれも海鮮丼にしとけばよかったなー」と友達に言ってる若者を見たときもこの気分になった。こんな会話はこの世に生きてる人間にしかできない。


一周忌の帰りの飛行機のなかで『星の子』を観た。出発前にタブレットに落としておいた。

あの7月8日を一日に持ってしまった今月もそろそろ終わるし、見るなら今かな、と『おやすみプンプン』と並行して鑑賞した。3月はこの感じで「ひまわり」を観ていた。あそこからさらに、いろいろ起きた。

観終わったあと、機内から出る列で振り返ったら見えたたくさんの顔が、映画内の集会のシーンで並んでいたそれらとなにも変わることがない人たちのものにみえて、そのとき自分はこの映画を飛行機で観てよかったなと思った。

この映画の最後にも、〈永遠のようなもの〉が映る。

あのあと娘と両親はどう〈離れていく〉のか。

あるいはどう〈離れられない〉のか。

あそこが最後の、家族がああいうふうに幸せだった本当の本当に最後の瞬間だったのか。あそこからどう、〈悪きもの〉へ搾り取られていくのか。

ぼくを襲う一個めの簡単な反応で言うとそれは〈ゾッとする〉、だし、全編を通して、基本的には悪い人ーーーー宗教サイドの人たちでさえもーーーーが1人もでてこないことがこの『星の子』をリアルな、自分の生きる社会のなかのお話にしていると思う。

いちばんリアルな〈自分〉と〈自分たちの町〉が書かれている邦画を今まで僕は『ヒメアノ〜ル』だと思ってたけど、『星の子』だったかもしれない。前半のラブコメが『ヒメアノ〜ル』は嘘だ。僕らの恋愛はああいうものではなく、ふたりだけでいやら…しく こっ…そり ねっとー…りと始められる。夏の夜の蒸し暑いあの公園だけが本当だ。そして『星の子』はみんな、ある程度まで、我が子や姪っ子や生徒や信者にやさしくあろうとする人たちであふれている。このあたりがリアルだと思う。

僕にとっての悪い人、御用学者やコメンテーターやら、は、僕が彼らの仕事の場にいたとして僕をぶん殴ってくる、ようには悪い人ではない、と言うと言いたいことは伝わるでしょうか?

〈悪〉って、立ち場と階層と分断と搾取とそれを維持しようとし続ける魂のことで、そのプレイヤーたちは別に常に棒をブンブン振りまわしたりするような「悪」ではない。ニコッと笑い、僕の言うことにももしかしたらウケて、トイレで横になったら挨拶だってしてくれる人たちが〈悪〉を為すんだ、みたいなことを思った。

社会、のなかにもう一個の小さい〈社会〉を作るやり口はセコいよなあと思う。

宗教のなかで友達とか作らせておけば、そこが、住んでる地元や生まれ故郷みたいになってその宗教を切り捨てることがしにくくなる、 でもそれって宗教の強度じゃないだろう?と地元も、友達も好きな自分は悔しくなる。うまい手だなあとも思う。以下、心に残ったところを箇条書き。

●本筋の感想じゃないけど、ああいうポップな登場を最初にかましたハンサムな先生がだんだん、ああいうイライラした男の人になっていくところはリアルだと思う。

●「ゆうぞうおじさんがやさしかった。変なの。」から、ゆうぞうおじさんは親戚の中ではこれまで怖かったり、粗雑だったりしたおじさんだったのかな、ということを思い、そのおじさんがいちばんまともに主人公家族を救いにくるまでにいたった時間やら、きっとあっただろう、ゆうぞうおじさん宅のヒソヒソとした会話なんかを思うとたまらなくなる。

「冷たい熱帯魚」とかがすごかった頃の日本映画だとゆうぞうおじさんは死んでたのかな? ゆうぞうおじさんが死ななくてほんとうによかった。

(でも「万引き家族」の樹木希林は死ぬし、ああなる、のは『冷たい熱帯魚』のころの邦画っぽさあった)

●後半、主人公たちの住む家は変わっていった、と見ていいんですよね?
あきらかにランクの下がったものに変わったのは、財産を宗教に供与したからなんだと思うけど(宗教のロゴが入ったルンバをいったん買って、その後二度と出てこないのってなんか変だね)、部屋に置いてある姿見のミラーが絶妙に安っぽい、大学の友達の部屋にあるようなやつに変わってたのとか細かいなぁ、となった

●しむらくん? だっけか。いいなあ。「終わったあと『あいつらにまた会いてえなぁ』って登場キャラに思えるのはいい映画」って宇多丸が言ってたけど、まさか『星の子』がそうなるとは思わなかった。しむら?くん、いいなあ。 泣いてる芦田愛菜への第一声が、きづかいの言葉じゃなくて「うわっ」なんだよな。


すごく批評的に、引いた線で、世界や社会を内に〈囲った〉話でありながら、でてくるのは全員この世にいる人間たちでしかないっていうか、この世にいる人間にしかこんな会話はできない、の羅列であるというか。

そう思うこと、そのときこみあげてくる水のようなもの、縦に、部屋からフロントに鍵を返せるラブホテルの透明なチューブのようなものを、上にのぼっていくお湯みたいな熱さ、それこそが、限りある生の「中」に閉じ込められた我々が感じられるギリギリ永遠に近いものなのかもしれない、みたいに特にラストを頂点に、思いまくる映画だった。

洗脳されてしまった脳の外、にも、友人たちやゆうぞうおじさんや、その家族や、保健室の先生たちやかっこいい顔の俳優たちなんかの〈別のもの〉が充実していて、それはもしかしたら絶対的な〈悪き者たち〉を相対化させてくれるのかもしれない。そしてそれは頼んでもないのに、起きてくれること、なのだ。

そして自分が、なんの洗脳も受けてない自分だと言い切れるだろうか?


世界が、自分の頭のなかで考えるだけのものではない豊かさーーーーそれは「全てが星の運命によって決められている」と説く教団の理念とはまったく逆のものでもあるーーーーを含んでいること、を映してやまない、そんな映画だと持った。

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ばあちゃんの一周忌で島に帰る。

餅をもらい、スパムを11缶もらい、油淋鶏を食べ、児童公園の星空がきれいで、常温のビールを飲み、久米島の怖い話を聞き、コークハイとチャンジャとゴーヤのピクルスをいただき、自分の家の仏壇にも友だちの家の仏壇にも線香をあげ、結婚式が11月19日にあったり、ハンバーグを食べた店の名前が「カフカ」だったり、ヤマピカリャーのぬいぐるみを探したり、無かったり、空港にたくさんあったりした。

「ヤスケンの海」は読めたけど、「路上」は読めなかった。

急にあるドラゴンボールガチャガチャ

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