はだし『渋谷区』評(なんたる星 2015年6月号)

ちょっと横断歩道がとおい二車線をわたって夏のほうへふたりは

はだし『渋谷区』(なんたる星 2015年6月号)



(2015.06.09)



ちょっと横断歩道がとおい二車線をわたって夏のほうへふたりは

を、

ちょっと横断/歩道がとおい/二車線を/わたって夏の/ほうへふたりは

と7音-7音-5音-7音-7音、で この一首を読むときの、下句へ向かう「ふんばり」にあたる5音部に置かれてある言葉が【二車線】という、社会、が我々のために設置したでっかいもの、であることは重要だと思う。その後、そこをあとにした2人が向かうのは人知の及ぶことのないさらなるでっかさ、の場所、【夏】であるからだ。

僕はこの突発的な書き物を『サンカク』の「ガルマン歌会特集」での永井祐さんの歌、と、それについての堂園昌彦さんの『つばさ 14号』での評、そして『太朗』で吉岡太朗さんの書いてた「やがて秋茄子へと到る」評にかなり引っ張られて書いていて、はだしさんの

ちょっと横断歩道がとおい二車線をわたって夏のほうへふたりは

は、

真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上(永井祐)

だ!! とまでは言わないにしても、

ちょっと横断歩道が遠い~ の一首を僕は、いま一番自分が気になってる切り口「多くの空気を歌のなかへ取り込む」を達成しだしているものであると考えているし、はだしさんはほとんど直感だけで(学習せずに、という意味ではなく)その正しい方向にむかって歩いていってるんじゃないかと思っている。『正しい方向』という言い方じたいが【そびえる電柱】のような同調できないもの、側の言葉だとすればそれは【夏】みたいな言葉へ言い換えるしかないかもしれない。

はだしさんは夏にむかって歩けてると思う。そしてそれは、一人 でも ひとり でも、二人 でもなく、ふたり で、なのだ。

(2016・06・12)


妙な言い方になってしまうけど、はだしさんの6月号の連作に僕は、〈同調できる〉。そう感じるのは、はだしさんがその連作『渋谷区』において、「それがなんか、危ない感受性である」ということを自覚したうえで(最後の【小児科の壁のでっかいキリンの絵やばいよマジあれは見にいくべき】の「やばい」あたりに、そんな息遣いを感じとれるかなと思う)、その主体の立ち位置を「でっかいものが気になっている」奴、というところへ置いているからだと思う。これは真面目、というのでも周到、というわけでもなく、その業の深さ、という点で僕はこれを支持する。

ウルトラマンに雲、ビル、と、とにかくでっかいもの、の出てくる連作『渋谷区』で、そういう単語をタバコの箱に見立てた上でのこの「傘」や、「塾」、「猫」、「小児科」「卓球」の小ささはなんのためのものだろう。

曲がり角がつくる影にいる猫が舐めてるなにか入ったいれもの

煎じつめれば我々の日常、が我々の日常、という小さなもの、の存続のために要請したさらなる小さなものが傘や塾で、傘は雨を防げるじゃない。塾、はそんな日々、を支える兵隊たちの、養成施設じゃない。訓練兵の救護のための小児科じゃない。そんな日常に倦んでくれば猫、かわいい猫、かわいい猫を見て、さわればいいじゃない。などなどと無音ながらも確実に・我らへと降り注ぐ「日常=そこ」にいろ、という【そびえる電柱】的なものたちからの言葉、のなかで はだしさんはずぅっと猫、とでっかいもの、が気になっている。

猫とでっかいもの、が気になっている自分のまま、もっといえば猫の状態で【夏】というでっかいほう、へと向かおうとしている。


(2016.08.03)