華原朋美の回

桃味は華原朋美の味がして嫌い 土曜の部活帰りの/シロソウスキー 


たとえば短歌定型が、その全体の広さをこちらには把握できない巨大な紙の一枚…だとして、こう


・(てん)1個を見せられても「?」なんだけど、こう


3つくらい打たれることで「ああ、」と、「この紙はだいたいB5くらいだな」みたいに作者の認識していて→切り取ろうとしている世界のサイズをこっちに分からせてくるような、そういう華原朋美 桃(の天然水) 土曜の部活帰りの置かれ方をされている歌だなぁと感じた一首でした。だいたいこの3つで、この人の青年期や、嗜好、捨てないことにしているいつかの気分などなどが三角形の周辺に見えてくる感じが楽しかったです。


しかしながら、逆の気分を受ける「列挙」というのも短歌には多くて、3語なら3語、置かれた、ものがそのまま「・」を3つ打ったことにならない…のっておもしろいなと思う。

使われてる語彙/打たれてる・(てん)、それ自体は好きな単語だったり色だったりするのに、今ひとつその人の紙のサイズ…が見えてこないっていうか、こういう短歌って

多いと思う。(というか、生きてて誰とも仲良くはなれないように、こう見える歌のほうが「そもそも」なんだと思う)


「桃」は【桃の天然水】がその後の主体に刻みこんだイヤさの象徴として現れていて、なぜそう言えるかというとタレントで歌手の華原朋美がかつてCMをしていたのがこの飲料水だからなんですね。「ヒューヒュー!」という声を華原さんがあげていて・・・と言いながらも僕はこのCMを自分の目で見たことがありません。沖縄ではやってなかったり、このCMのついたドラマやバラエティを観てなかったということなのかな。モノ自体は売られてました。裏を返せば、見たことないのに真似できるくらいの強度を持つ「ヒューヒュー」だったし、華原さんだったということなんでしょう。

ああいうたぐいの、色が透明で〈未来〉みたいな甘みのする、非・コーラ的で当然オレンジジュース的でもない・・・みたいなのって「桃の天然水」がかなり先駆けで、こんなものが、飲もうと思えばいつでも飲めるのって嬉しすぎると思った記憶がある。そのへんの〈未来〉感は【買ってはいけない】っていう着色料と人工甘味料にとにかく辛辣な注意喚起本の該当ぺ―ジで「すごく太る」という主旨の文章で早々に釘を刺されていて、桃の天然水の〈幸福感〉と〈悪魔的〉は、あるゾーンの世代にとっては同時に入り込んできたものだった。

時代は下りまして、あれ系の透明+フルーツの味 の飲み物ってコンビニで100円前後で買える「なし水」「グレープ水」みたいなロング紙パックのやつに引き継がれていて、甘くておいしい、かつ「こればっか飲んでたらだめになりそう」感も盤石なままで、この「こればっかりしてたら」な恐怖が、不思議と、華原さんが自由(に見える)な生き方をしていたこの国の季節と、そのあとの華原さんを思うときの気分に相性がよいのですね。

「桃の天然水」がその後の主体の「桃」への気分まで浸食させたことを思うとき、その「負」の育まれた期間が「土曜の部活」という、かなり意識的に自分を向上させたく思う者との接続が強い営み、の「帰り=消灯時間」にあったんだというところがヒッと悲鳴をあげたくなるくらい決まってると思います。どこで「だめ」になるか分からない、広さの上で自分たちは生きているのだという寒気と、逃げられずに損傷を受けた「桃」への感受性のこと。(「桃」は短歌において現世肯定?の象徴として詠まれることが多いアイテムで、なのにこういった「・」として打つのに使う所に惹かれた部分もあります)


弟が通話のままで虹だ!と叫んでつくる少しの無音/いわまむかし

電話と虹と無言、で

沈黙のなかに「虹だ」の声がありそれきり無言電話がこない/まるやまるい


という先行作品を思い浮かべまして、まるやま作品における、狂気に牧歌性の勝ち得た瞬間・・・(みたいな言い回しを恥ずかしげもなく僕はできるようになったんですけど)の活写に対して「弟」という安全圏、から連れてきた他者に「虹」を言わせた…ことでピンスポは虹(の良さ)でなくもっと「弟」の紹介タイムや、キャラクター性の補強、に当たったのかなぁというのが掲出歌。

短歌において「恋人」が、なんというかすごく短歌とかはしなさそうっぽさ・・・ともすると本とかも読まずに素敵でいれてる「いきもの」っぽさ・・・を纏ったままトリックスターとして登場し、そして使い倒されがちなのはなんでなんだろう、とかねてから不思議でして、「弟」にもちょっとそういうところはあるんじゃないかといわまさんの歌で確信した(辻聡之さんのこないだ出た歌集における「弟」なんてもろにその代表格だと思う)んですが、もうちょっと考えを伸ばしていくと、北山あさひさんの「蚊だよ」の歌での「ともだち」だって「蚊に刺されそう」という点ですごい「いきもの」っぽいし、それを指摘する側、は短歌を作っちゃう側ですよねっていう、何が言いたいかというと・・・なんで短歌で恋人・肉親・友達・他人という「自分以外」を詠むとそれらはおもっくそ「いきもの」っぽくなって、「自分」は「蚊だよ」を指摘する側や、通話中の弟に黙られてしまう側や、さかだちをしてる「おまえ」に見つめられる側に回ってしまって「トリックスター」側にいけないんだろうということがとても疑問で、もっともっと言うと短歌の陰口性(かげぐちせい)みたいなものが最近僕には本当に高い壁に見えるんですね。そこに書かれているものがどんだけほのぼのとしたワンシーンや、清潔な祈りや、やむにやまれずあふれでた「叫び」であっても、なにかしらかの「(読者と楽しむ)陰口」っぽさが匂ってきてしまうということ・・・でもそれが「書く」ことにまつわって・そして引き受けていく負債なんですよね、たぶんそもそも。

この「他者を歌の中に連れてきて」「読者との楽しい陰口」っぽさをすごく上手く脱臭!消臭!できてる歌集として宇都宮さんの『ピクニック』はあって、(いわまさん 『ピクニック』の話になりましたすいません)これはこの歌集のかなり特筆すべき点だと思う。

ボウリングだっつってんのになぜサンダル 靴下はある? あるの!? じゃいいや/宇都宮敦『ピクニック』


・・・なんというか、余裕で「陰口」ではあるんですけど、たとえば宇都宮さんのこの歌をこの歌、のモデルにされたような人が読んでしまったとして「え イジってんじゃん!」って文句をいってきそうな笑顔の感じがあるから、へらへらと「宇都宮さんの連れてきた他者」を読めるみたいな感じの「他者の連れてこられかた」の歌って稀有なんですよね


けつがでかい男の為にも真っ白なスキーニーパンツは用意されてる/へろへろ 

「ああいうおしりかな」「自分の知ってる人でいうと、あの人かな」みたいにパッと【最寄りの「けつがでかい男」】が浮かぶゾーンの「なにか」を切り取ってくる着眼はすごいし「おもしろい」うえで、やっぱり前述の理由でこれは短歌の「壁」だし「課題」のこっち側にある「他者の出し方だよな、」・・・「じゃあどうすればいいんだろう」があったおもしろい歌でした。



住む町に土偶が出土してそれにヴィーナスの名が付いてうれしい/沢茱萸 


「●●な〇〇があって、××が△△で(奇妙なものごとの説明)」+「〇〇だ(感情語)」という作りの歌で思い浮かんだのは

おじさんとだるまを投げて遊んだらだるまが割れてとても悲しい/青木麦生

というもので、沢作品における「うれしい(感情語)」が、どっちかというと自分で短歌の中にかき集めてきたマテリアル・・・を最後「あ~」ってグチャグチャ!って途中で終わらせた感じを受ける「うれしい」で、うれしいって書いてあるのに「あっけない」のに対して、青木作品の「奇妙なものごと」+「悲しい」が、「悲しい」って書いてあるのに読者にはちょっと「楽しい」のは、【奇妙なものごと】がすごく読者に対してオープンなものである、ということが大きいのかなと思いました。

「土偶が出土」だって想像の開始がいがある出来事、としてはけっこうオープンなんだけど、「読んでる自分も想像の中でだるまを投げてみたくなる」ほどには読者のしてみたくなることがなかったのかなあという感想です。「出土」がいわゆる「完全に事実」な世界、側の出来事だとしても(つまり【土偶 出土 ヴィーナス】ってググったらこれに一致する一件がヒットして、読んでみたらそのページがおもしろくても)それが〈世界の不思議さ〉までは届かない淡白さのそれというか。




https://ws.formzu.net/fgen/S85982387/

・月の末日までに届いたどれかへ1首評を書き、翌月の2日にこちらのnoteへアップいたします。

・引用された短歌は既発表作扱いとなります。
(新人賞応募作品等に組み込めなくなります)

・投稿歌・投稿者に関して、文章以外の形で喧伝・口外することはありません。

伊舎堂 仁(TWi ID:@hito_genom)