『山椒魚が飛んだ日』の感想



~~さんの歌集が出た。自分は~~の一首がいいと思う。そのように囁かれて短歌を知るとき、リリース前のシングルカットみたいだと思う。PVになった曲が1つある、このアルバム。あそこまで聞けばあれが聴ける。そういうふうに歌集を読んでるだなんて、なめられそうだ。でも好きな歌はそうやって増えていくことが多い。あそこを集合場所にされることで、ここも通ることになる。気づくとくまなく歩き回れている。いったんそういうものにたとえる。

やはりはうしやのうでせうかと云ふこゑのやはりとはなに応へつ、否と

光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』

歌集を読む前にいちばん目にした短歌、というとこの一首な気がする。この歌をPVとして、歌集ぜんたいの世界像をつかんでいくのが正しいことかわからないけど(PVではないかもしれないから)、でもこの始まりはいいなあ、クリティカルだなあ、としみじみする。僕の光森さん観と作者像、作風、そして投げ出されているテキストは当たり前にべつべつのものだ、しかし僕は僕の「いいなあ」のために本を読むことがある、ここでやはりを言われている先にこの短歌の書き手がいる、そのことにはとても納得してしまう。

やはりから言葉をはじめるときふつう、その人のなかにはかねがね育てていたきもちがあって、『山椒魚が飛んだ日』のなかで一連の言葉を短歌に統べている「誰か」はけっこうくっきりと、先の見通しがあり(其のひとの靴をおく日がくることを思へば狭き玄関である『其のひとを』)、ミッション完遂までのスタミナがあり(客去りしのちを観てをり天翔けるエンドロールに名を盗まむと『其のひとを』)、いたずらっぽささえ備えているかと思えば(途中まで解かれてゐたるクロスワードパズルを埋めぬ君が字をまね『其のひとを』)観察と記憶の(つよく捺す判に張りつき浮きあがる手術同意書 はがれてゆきぬ『其のひとを』)人である。そのような人が、あの地震以後というタイミングで東京を離れるってことは(危ないという話があるし)(そして引っ越しは生活のアップグレードのための行為であるから)放射能のこととかがあるからですかやはり・・というところまで巻き戻して想像してみるとき、この「やはり」は自分が言ってしまいかねない「やはり」であることに気づく。きもちを育てていたわたし、の告白の言葉である「やはり」は同時に、いったん認識を止めるためのものでもあり、それが生み出す断絶感をこの歌集を統べている「誰か」の感度でもっていったん受け止めてみることで、自分のなかの認識がすこしだけ動く。くっきりと思い浮かべた「誰か」を、あなたはわたしだと思っているでしょう。はい。・・・否、と言われるところからこの歌集ははじまる、と書けば大げさに喜びすぎているだろうか。

自転車の灯りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち 

『鈴を産むひばり』 

ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか 

ひまはりと書かれてしろき立て札に如雨露に残るみづをかけたり 

「光森裕樹」を思い出すとき浮かんでくるのはこのような歌で、書かれたものと受け取れたこと、とでほとんど誤差がないようなこれらの短歌に最初からとりこになった。その国の言葉に翻訳すれば、その国の人でも、僕と同じような感銘を受け取ることできるんじゃないかと思ってしまうような書きもの。油断してると、生きていくうえで出遭うたまらないなにか、を食らわせてくる短歌にくらべて、挙げたような歌にはどこか、裏ルート間での取引めいた快楽があった。ウェットな言葉からは、回想/連想させられる負の記憶も多い。あんまりにも〈感じ〉の言い方になってしまうけど、「安定した職に就け」「男は家庭を持ってやっと一人前」みたいなこともそのうちに言ってきそうな短歌ってないですか。『鈴を産むひばり』の言葉は、どう転んでもそのような「誰か」には繋がっていかない気がして、いま振り返るとそんなひんやり感を僕は楽しんでいた。

さみどりの胎芽が胎児に変はりゆく秋を一貫して吾なりき 

『其のひとを』 

其のひとのうまれ故郷をぼくたちは風の離島と許可無く決めたり

みごもりを誰にも告げぬ冬の日にかんむりわしをふたり仰ぎつ 

性別を明かさぬままに子を詠みてふたとせさうだふたとせが過ぐ 

『幡ヶ谷沃野』 

そう読める部分、から判断してしまうと『山椒魚が飛んだ日』では、転居と結婚・(パートナーの)出産・独身時代の回想・我が子への命名・自分の病気、が起こる。光森さんの言葉に水分が忍び寄る。危機だ。光森さんも一人の人間で、年齢相応な、人生の葛藤を引き受けていくことになってしまうのだなやはり、といった感想を自分が持つかもしれないという、その可能性にまず不安がある。その不安はしかしながら、歌集中(ちゅう)の言葉の置き方のひとつひとつに立ち止まっていくことで再確認させられる、この作者の微動だにしなさ・・をもって解消されるというわけでもなく、微動はしているようにも見える。で、そのうえで、この震えさえも『鈴を産むひばり』の続きの世界にいる「誰か」の言葉なんだ、と、思えるような短歌の統べられ方をしているように感じる、と書くともうほんとうに文意がガタガタだ。でも『山椒魚が飛んだ日』の感想を、ほとんど誤差がないように書こうと努めたときに自分が言えるのは、おおよそこういったことになってくる。

一貫して吾なりきを書いている誰かがいる。一貫しているその人、が一貫していると書けばそれは、一貫しているということなんだろう。しかし、一貫しているを言っておきたくなったそのときの「誰か」が、そのわざわざの行為、によって 居る位置からわずかにずれたように見えた「今」のこと。これが微動。許可無く決めたことを、許可無く決めたりと書いておきたくなったそのときの「誰か」の心の唇の許(きょ)、可(か)、のうごき。これが微動。誰にも告げなかったり、明かさないままにしていることがある。そのことだけが報告されるときに、みんなの見ているなかで少しだけ下がる、〈沈黙期間〉を乗せたお皿。そういった微動.....は、『鈴を産むひばり』では僕が見かけることのなかったものだ。転居・結婚・出産・命名・自分の病気と、他者性(コントロールの効かない「私」以外の何か)が濃密に関わってくるこれらによってなら、この、僕の好きな「誰か」も揺れはじめるのかもしれない・・の、「かもしれない」アイのおかげで初めて見えたそれさえも、喜んでいる場合じゃないくらい「僕が見たいと思っていたもの」かもしれない。単に。

だから何回でもあの歌の否、が役に立つ。今のところそうおもいます。


●5首●


とりいそぎ書かれたる字はうるはしく〈本日のアンコール曲〉をみとめて去りぬ

やはりはうしやのうでせうかと云ふこゑのやはりとはなに応へつ、否と

つよく捺す判に張りつき浮きあがる手術同意書  はがれてゆきぬ

這ひつくばひ喘ぐ吾子がため此処にゐる新生児はみなうつぶせにせよ

sagitta/天箭座

昇りつめ落ちはじむるとき一点の矢は線分となる桔梗色


①行ったことないんで分からなかったんですけどコンサートの帰り口にはそういうものが飾ってあるんですね!という新情報をGETできたという一点、そういうことをしてくれる誰かがいる、という短歌の外にある世界、に対して「ありがとうございます」が生まれるという一点、曲名でなく字の書きぶりになにかを思おうとする視点の提示という一点、で好きな一首 

③すごいところをすごい時間感覚でもって言語化しましたね、というエクストリームさで好きな一首

④とんでもないことを(なのに)理屈があるような強度でもって断言されて、怖すぎて笑ってしまったあとにでもちゃんと怖くもなる、揺さぶってきかたが好きな一首

⑤光森さんのミッション遂行欲(よく)・コンプリート欲(よく)が発揮された歌って、こちらの事前知識がない場合に「降参です」となってしまうまでが早いと思うんですけど、(なので、「光森さんがやりたいっぽいこと」と「僕が読みたいようなもの」がいい配分で合致するとき

其のひとが人を撲つ夏、より深く其のひとを刺す名はなんだらう

其のひとが屈みこむ秋、胸そこの枯れ葉に火を打つ名はなんだらう

其のひとが子を抱く春、もろとみに包(くる)みてぬくき名はなんだらう

其のひとの髪しろき冬、よかつたと思ふにいたる名はなんだらう




のような一連は幸せな読み味になるんだと思う)


【トレミーの四十八色】という、そういう欲が全面展開されてるっぽい連作において、いちばん美しく受け取れる景として好きだった一首。すごく速いF1カーを見て喜ぶ、みたいな説明の要らないかっこういいものをこの短歌の一行で存在させれていると思いました。