2頭身世界のカメラアイーー加子『めでたしめでたし』評




そういえば加子さんの連作を読むのは、初めてなのだった。単体での短歌の良さに関しては、もはや「みなさん知ってますか」「加子ってヤバい人がいますよ」的に宣伝を行う時期も少し過ぎてしまった感があり、もっぱら今は〈エリア拡大中〉ってところだろうか。

かつての0円PHS、のように、良作をばらまく時期、に今のこの人はあるって気がする。で、行き渡り次第、読み手へ要求するもの…を一気に引き上げるような怪作・ひいては傑作、を繰り出す、って動きが待たれているしたぶんそれができる、そういう時期にいる人だと僕は思ってる。言わずもがな、それはたいへん幸福な季節だろう。加子さんは雪舟えまになるんだろうか、なんてのは無責任な思いつきにしてもぬるくて、鼻白まずに、ちょっと僕の言うことを聞いてほしい。いずれ加子さんは、加子さんになる。

書かれてあるあの短歌の横に、アイコンのあの水色、があるのは中山俊一って歌人にとって重要なポイントの気がする…ということを僕は、ついこないだのDMで中山俊一さんその人へ言った。あの水色は中山さんの短歌の青春感、を補強する水色で、なのに近づいて見るとへんてこなもの、に貼り付いている(見てみてください)色、ってのが、より青春っぽいのだ。似たようなトピックに、著者近影で木下龍也さんのかぶってる黒のハットは、確実に木下さんのあの短歌世界の空気作りに一役買っている、というものもある。少なくとも僕にとってはそのように機能している、ってことなんだけど、あれがあることでこちらが連想するのは、ラーメンズの頭脳・小林賢太郎のソロの時と、あの人の作るコントのスタイリッシュさで、この連想が、あの非常にコンセプチュアルな短歌の鑑賞の補助線になっている…と書けば少し自分の好きなものへ引きつけて考えすぎているだろうか。でもこの通りに僕は思っている。で、なにが言いたいのかと言うと、加子さんの筆名に名字が無いのは、ひょっとしたら中山俊一の水色アイコンや木下龍也のハットを越えるくらいの「大正解」だったのではないか…ということだ。

加子。この筆名が短歌とセットで現れることで目の前の言葉が、なんだかコロボックル、的なものによって発せられるものに見えてこないだろうか。名字+名前、で一人の人間なんだとすれば、加子さんはその半分を情報として切り捨てることで、自身の言葉をコロボックルの発語的なものへ異化させているように感じる。加子さんの短歌を読むとき、僕の頭の中にいる作中主体はかわいらしい2頭身の(しかし人型な)いきもので、それはまるで今作【(めでたしめでたし)】3首目の「7人のこびと」のような存在だ。殺戮も性欲もいやしさも、男の下卑た処女信仰もひいては乱交パーティまでも、加子さん作品においてはコロボックル的な何かが言ってるもの、へ異化される。本名の伊舎堂 仁で短歌を始めてしまったような人間にとって、ここにある「作戦勝ち」はほんとうにほんとうにほんとうにほんとうに、羨ましくてそして短歌結社「なんたる星」には、まだまだスコヲプ。泥ロボ。ナイス害。真匿名。はだし。迂回。恋をしている。がいる。いまからでもフラワーひとしあたりで作歌の再開を図るべきなんだろうか…ってなところで目下・保留としての伊舎堂 仁、の持つ、加子観 中山俊一観 木下龍也観 なんたる星観、をかなり駆け足で吐露させてもらったうえで、短歌の感想。

深海ミラーボール乱交パーティーのフロアの扉閉めたのも亀

初句7音じゃないか。そして〈乱交パーティ〉ってな語彙のチョイスに勝手に、負けるかよ、の腕まくりをする加子さんを見てしまう。

タイトルから考えるまでもなく「亀」は浦島太郎の亀だろう。物語の進行へ全存在を奉仕しなくちゃいけない浦島太郎=主人公は、最重要人物にして遊びと自由意思の許されない駒でもある。後にでてくる小人の場合でもこちらの方法は取られるけど、脇役たちの目にカメラを取り付けることでおもしろみ、に分類されるような雑音を拾おうとしている。名探偵コナンしかりsawシリーズの1作目しかり、「扉が閉まって、おしまい」という様式美が物語にはあって、この短歌はそんな手段へ泥を塗ることのない、一つの結実の形を見せている。

蟻がキリギリスを解体して運びながら歌っている歌がある

「トリビアの泉」のトリビアの言い方って口語短歌だと思う。で、こっちにはトリビアと違って真偽の検証を行わずともよいという強みまである。たった今起きた、言葉のスパークを見守ることだけが許される。しかしながら、だ。

ガチャピンの「たべちゃうぞ」的な、そういう怖い童謡があるんですよ、みたいな読みをしたんだけど、これは本当か作り話か、ということが気にならないかという嘘になる。で、本当の方がいい。どこをどうスピンオフしてるんだっていうおかしさ。の裏にはりついてる、残酷さへのピュアな希求、ひいては需要だ。人間は全員怖い。

中くらいのつづらにはややこしい美女が入っていたのだけれど

あんまり加子さん加子さん言うのもなんなんだけど、加子さんはその本質、というか生身、人間味、みたいなものをこれ、と次の一首、で想定されている「ややこしい美女」「カマトトぶる処女」の間あたりに置きたがっている書き手なんじゃないかという気がする。

美女も処女も、主役性、みたいなものがその中へ最初から含まれている言葉だから、そのどちらでも無い立場、から書かれている加子さんの言葉がおもしろみ、を帯びるのは おもしろみ=脇役に置いたカメラアイ 説を補強する事実だと思う。

処女なのでわかりませんというような態度にマッチがどんどん売れる

そしてやりすぎない。のがいいのかなと思う。「処女だからわかりません」の方向でもう一・二個 嫌さ、を足していきたくなる。俺だったら。でもマッチにまつわる人々の「わらわら」みたいなファニーな動きの方へ話がいく。これが連作、でできることなのだなあ。今回のハイライトはここであるだろうし、2頭身の作者が牙を向いた瞬間でもある。

(そんなことよりこの団子、クレープに混ぜて売ろうよ、はらじゅく、とかで)

そしてその後の( )で閉じられた発話によって、最初に想定した枠からちょっと、だけはみでて、終わる。これは誰のひそひそ声なんだろう。わかるのは、明らかに最後のこの一首でカメラアイは、異なった位相に飛んだということだ。これは、あのケンカ漫画 BOY(梅澤春人)の最終巻の最終ページと同じおしゃれなやり方で、余談だけどこっちの方も立ち読み等でぜひ確認してほしい。



マッチです、いりませんかぁ盲腸の手術の痕も火で見せますよ (伊)

(2015.5.22)


追記

「にまで」って言い方も無いとは思うけどその後、加子さんは岡野さんにまで見つけられて、なんだったらタイムライン上においては僕や岡野さん・僕や加子さん、よりも岡野さんと加子さん、のほうが近しく、そしてやり取りしてる組み合わせとしても違和感のない、ような歌人へと変化してしまった。っていうか、そもそもいまこの歌人の名前は加子ではなく、加賀田優子で、そういうところもかなりばつがわるい。「そのとき」の自分の荒い鼻息が、こんな風に1年後にもまだ、なんだったらもっとみっともない感じのしめりけをプラスされて、聞こえてくるなんて、怖い。こんなこと、さっさとぜんぶやめてしまいたくなる。

…でも上の文章を書いてからそうなるまでって1年くらいしか経ってないんだなぁ、と思うと、そんなの何も言ってないようなのと同じ、なことをこれから言うけど、

ゾッとします。

そんな岡野さんは加子さんの歌を評して、「初音ミクの声で聞こえてくる」と言った。かなりそうとも言える、そうとも言える・・とうなずきながら、俺はよそ見をしている。初音ミクかぁ。よそ見をしながら、そう、繰り返すのだ。


(2016.08.03)